現在の京都御苑内にあった院御所と庭園。京都御所の東南に位置しており,約9万m2の境域を占め,仙洞御所と大宮御所からなる。仙洞とは太上天皇の居所を意味し,現在の位置に仙洞御所が創建されたのは1627年(寛永4)に後水尾天皇の譲位を予定して幕府が造営に着手し,30年に完成した後水尾院御所であり,同時に後水尾院中宮東福門院の御所が仙洞東北に造営された。後水尾院御所は数度焼失しそのつど再建されたが,霊元院のときの1708年(宝永5)に焼失し,再建されたものは中御門,桜町,後桜町院によって仙洞とされた。その後88年(天明8)に焼失し,90年(寛政2)に再建されて後桜町,光格両院の仙洞になったが,1854年(安政1)に焼失してからは再建されなかった。一方,67年(慶応3)に英照皇太后のために仙洞御所東北の旧東福門院御所跡に造営されたのが現在の大宮御所である。現在の仙洞御所は南池と北池の二つの広大な池を中心とした庭園だけで構成されており,後水尾院御所創建時に小堀遠州が奉行して作庭されたが,1664年(寛文4)に大改造され,現在の姿にあらためられた。南池の南端に茶屋醒花亭(せいかてい),北池西岸に茶室又新亭(ゆうしんてい)がある。
執筆者:川上 貢
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上皇、法皇の御所。院の御所ともいう。平安初期以降、天皇は譲位すると内裏(だいり)を出て別の御所に移るのが例となった。これが仙洞御所で、家政機関である院庁(いんのちょう)が置かれ、院司(いんし)が定められた。平安中期以後は里内裏(さとだいり)を院の御所とすることも多く、とくに院政期には院の活動が活発化し、各所に仙洞ができた。中世以後、武士の勢力が増すにつれて衰亡し、近世になると幕府によって内裏(現在の京都御所)の周辺に集中させられた。現在、京都御所の南東に残る仙洞御所は、1630年(寛永7)小堀遠州(こぼりえんしゅう)を奉行として後水尾(ごみずのお)天皇のために造営された。1854年(安政1)焼失のおりに、仙洞に住むべき院が不在であったため再建されず、いまは庭園のみが残っている。
[吉田早苗]
仙院とも。天皇が譲位後に居住する御所。奈良時代までは,天皇も太上天皇(上皇)も同じ平城宮内に住んでいたが,平安初期になると,平城上皇は平城宮を御所とした。ついで嵯峨天皇以降は,譲位の儀に際して平安宮を去り,別宮に移るのが例となった。後院(ごいん)をあてるのが例で,とくに嵯峨・陽成・宇多・朱雀(すざく)・冷泉(れいぜい)上皇は累代の後院とされた朱雀院・冷然(冷泉)院を御所とした。院政期にはいると,白河・鳥羽・後白河上皇は京内の御所のほか,郊外に白河殿・鳥羽殿・法住寺殿といった,御堂が付属した広大な御所を造営した。南北朝期には仙洞御所焼失のため,臣下の邸宅を使用した。応仁の乱以降,一時仙洞御所設置が中断したが,江戸時代には復興し,京都御所の東南に営まれた例が多い。
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出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
…平安内裏の本宮に対する予備の別宮。のちには上皇の御所に充てられることが多くなり,江戸時代中ごろから上皇不在の間の仙洞御所の称となった。後院の文献上の確実な初見は仁明天皇の後院で,従前の離宮の一つである冷然院を後院とし,842年(承和9)には内裏修理の間,ここに移った。…
…《荘子》逍遥遊篇によれば,この山には,肌は雪のように白く,肢体は処女のようにしなやかで,五穀を食わずに風や露を糧とし,雲に乗り竜にまたがって宇宙の間を自在に飛翔し,ひとたび精神を集中すれば,あらゆるものを疫病や災禍から救いあげられる神人が住むという。日本では転じて仙洞御所を別称する。【麦谷 邦夫】。…
※「仙洞御所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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