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源融 みなもとのとおる

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

源融
みなもとのとおる

[生]弘仁13(822).京都
[没]寛平7(895).8.25. 京都
平安時代初期の廷臣。河原院 (かわらのいん) ,河原大臣と呼ばれた。嵯峨天皇の皇子。母は大原全子仁明天皇の皇子となって承和5 (838) 年内裏で加冠,正四位下に叙せられ宸筆の位記を与えられた。

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デジタル大辞泉の解説

みなもと‐の‐とおる〔‐とほる〕【源融】

[822~895]平安前期の公卿。嵯峨天皇の皇子。源の姓を賜り、臣籍に降下。六条河原に邸宅を営み、河原左大臣とよばれた。宇治に営んだ別荘はのちに平等院となる。

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百科事典マイペディアの解説

源融【みなもとのとおる】

平安初期の廷臣。嵯峨天皇の皇子,母は大原全子。源朝臣の姓を受け臣籍に下る。仁明天皇の養子となる。左大臣にまで昇進したが,藤原良房・基経らの執政下で権勢を振るえなかった。
→関連項目平等院

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

源融 みなもとの-とおる

822-895 平安時代前期の公卿(くぎょう)。
弘仁(こうにん)13年生まれ。嵯峨(さが)天皇の皇子。母は大原全子。嵯峨源氏。斉衡(さいこう)3年(856)参議。貞観(じょうがん)14年(872)左大臣にすすみ,従一位にいたる。皇位に希望もあったが藤原基経におさえられたという。河原左大臣とよばれ,豪奢な風流生活で有名。寛平(かんぴょう)7年8月25日死去。74歳。贈正一位。
【格言など】みちのくしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れ初(そ)めにしわれならなくに(「小倉百人一首」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

源融

没年:寛平7.8.25(895.9.17)
生年:弘仁13(822)
平安初期の公卿。河原左大臣と称される。嵯峨天皇の第8皇子で母は大原全子。元服後,義兄の 仁明天皇の皇子となる。源の姓を賜り臣籍に下り(賜姓源氏,いわゆる嵯峨源氏),斉衡3(856)年参議に任じられた。このとき公卿の顔ぶれに嵯峨源氏が4人もおり賜姓源氏の力が大きかった。貞観14(872)年左大臣となるが,下位の藤原基経が摂政となったことで政界を去り,風流生活を送る。その場となったのが京内の鴨川近くに営んだ河原院をはじめ京外の宇治や嵯峨の別業(別荘)であった。嵯峨のそれは棲霞観(現在の清凉寺)と呼ばれた。河原院については,のちにゆずりうけた宇多上皇に融の亡霊が現れて怨みを述べたが,道理に服して消え去ったといった話が『今昔物語集』にある。能の「融」はこうした伝説を下敷きに作られたものである。「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」が百人一首にとられている。光源氏(『源氏物語』の主人公)のモデルひとりに挙げられている。<参考文献>山中裕『平安人物志』

(朧谷寿)

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世界大百科事典 第2版の解説

みなもとのとおる【源融】

822‐895(弘仁13‐寛平7)
平安初期の廷臣。河原左大臣と称される。嵯峨一世源氏。母大原全子。仁明天皇の養子となり838年(承和5)内裏で元服。累進して左大臣に至ったが,藤原良房,基経らの執政下で力を伸ばしえず,巨富により河原院(かわらのいん)や嵯峨の山荘棲霞観(せいかかん)などを営み,豪奢な生活を送った。歌人としても知られる。《大鏡》には彼の皇位への野心を伝える。河原院は宇多上皇の領となった。【黒板 伸夫】
[説話と伝承]
 融の邸宅河原院は,その景観が賞され,当時の詩歌にしばしば詠じられている。

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大辞林 第三版の解説

みなもとのとおる【源融】

822~895) 平安初期の廷臣。嵯峨天皇の皇子。源姓を授けられ臣籍に降下、872年左大臣になった。河原院という豪邸を営んだので、河原左大臣ともいう。宇治の別荘はのち平等院となった。歌をよくした。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

源融
みなもとのとおる
(822―895)

平安前期の歌人。嵯峨(さが)天皇の皇子。838年(承和5)臣籍に下り、872年(貞観14)左大臣に上り、左大臣在職24年。生来、風流を好み、鴨(かも)川のほとり東六条に四町四方を占める大邸宅河原院(かわらのいん)を営んだことから、河原左大臣とよばれた。奥州塩竈(しおがま)に模した河原院の名園は文人貴公子の社交場となったが、死後は荒廃した模様である。この河原院と融の大臣を題材とした夢幻能に『融』がある。勅撰(ちょくせん)所載歌は『古今集』以下四首。
 みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに[島田良二]

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世界大百科事典内の源融の言及

【竹取物語】より


[作者について]
 このような世界を描き出して見せた作者は,現実の貴族社会の俗悪面に矛盾を感じつつも,なお人間世界での清純なものにあこがれた人で,和・漢・仏教等の教養ゆたかな男性であったようである。作者については,従来,源順(したごう),源融(とおる),僧正遍昭,斎部(いんべ)氏の一族などの諸説があるが,確証はない。《竹取物語》は,上述したごとく,対照的な要素を,伝統的な形態の中に創造的な契機をふくめて,巧みに描き出した物語で,たわいなく,おもしろく,美しく,深みのある作品である。…

【融】より

…世阿弥作。シテは源融の霊。旅の僧(ワキ)が都に着き,河原の院の旧跡を訪れると,潮汲みの老人(前ジテ)がやって来る。…

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