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河原院 かわらのいん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

河原院
かわらのいん

六条院ともいう。平安時代初期,嵯峨天皇の皇子源融 (みなもとのとおる) の別荘。京都六条大路の北,東京極大路の西にあった。庭に陸奥塩釜の風景を模した山や池を造り,毎日,難波の浦から運ばせた海水で塩焼きをしたという。の死後,その子の湛が宇多上皇に献じたが,上皇の死後,寺とした。 (→平等院 )  

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世界大百科事典 第2版の解説

かわらのいん【河原院】

平安前期に栄えた邸宅平安京の六条大路の北,東京極大路の西に位置し,広さは4町(一説には8町)に及んだ。嵯峨天皇皇子の左大臣源融が創始者であることは《伊勢物語》(81段)などからも知られる。たいへん趣深く造られており,鴨川の水を引き入れて池をつくり陸奥国の塩釜の浦の景観を移し,難波から海水を運ばせては塩焼をさせて,その風情を楽しんだという。《源氏物語》で光源氏の六条院のモデルとなったのは由なしとしない。

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大辞林 第三版の解説

かわらのいん【河原院】

京都六条坊門の南、万里小路までのこうじの東にあったという源融みなもとのとおるの邸宅。陸奥国塩竈の景を模した庭園を造り、毎日海水を運ばせ塩を焼かせたという。融の没後、宇多天皇に献じられ、のち寺となったが火災などにより荒廃した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

河原院
かわらのいん

嵯峨(さが)天皇の子源融(とおる)の邸宅。平安京六条坊門の南(現在の五条通)、万里小路(までのこうじ)(現在の柳馬場通)の東8町にわたり、賀茂川の西にあったという。融の死後、宇多(うだ)法皇の御所となり、東六条院ともよばれた。庭に池を掘り、陸奥(むつ)(宮城県)の塩竈(しおがま)に模してつくり、摂津(大阪府)難波(なにわ)の浦より潮水を運び海の魚を泳がせ、塩を焼いたという。在原業平(ありわらのなりひら)をはじめ文人、歌人が多く集まり、融死後、紀貫之(きのつらゆき)の詠んだ和歌もみられる。融より子の昇(のぼる)に伝領。昇の孫の歌人安法法師も住み、のちに寺となり、991年(正暦2)僧仁康(にんこう)が釈迦(しゃか)像を安置した。1155年(久寿2)焼失した。再建後、1159年(平治1)、1203年(建仁3)にも火災にあった。[山中 裕]
『山中裕著『源融』(『平安人物志』所収・1975・東京大学出版会) ▽目崎徳衛著『宇多上皇の院と国政』(『延喜天暦時代の研究』所収・1939・古代学協会) ▽犬養廉「河原院の歌人達」(『国語と国文学』44―10.1967.10・至文堂)』

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世界大百科事典内の河原院の言及

【塩釜[市]】より

…【渡辺 信夫】
[歌枕]
 《古今集》巻二十の東歌に〈みちのくはいづくはあれど塩釜の浦こぐ舟の綱手かなしも〉がある。その佳景は《伊勢物語》に〈わがみかど六十余国の中に塩釜といふ所に似たる所なかりけり〉と記され,河原の左大臣源融が塩釜の佳景を園池に写した〈河原院〉を賀茂川のほとりの六条あたりに造ったことが述べられている。《古今集》巻十六には〈河原の左大臣(ひだりのおおいまうちぎみ)の身まかりてのち,かの家にまかりてありけるに,塩釜といふ所のさまをつくれりけるをみてよめる きみまさで煙たえにししほがまのうらさびしくもみえわたるかな〉という紀貫之の歌がある。…

【源融】より

…仁明天皇の養子となり838年(承和5)内裏で元服。累進して左大臣に至ったが,藤原良房,基経らの執政下で力を伸ばしえず,巨富により河原院(かわらのいん)や嵯峨の山荘棲霞観(せいかかん)などを営み,豪奢な生活を送った。歌人としても知られる。…

※「河原院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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