日本歴史地名大系 「河瀬村」の解説 河瀬村ごのせむら 和歌山県:有田郡広川町河瀬村[現在地名]広川町河瀬井関(いせき)の南にあり、鹿瀬(ししがせ)谷から流れる川の瀬からきた地名といわれる(続風土記)。熊野街道の鹿瀬峠へ登る入口にあたるので近世には旅籠もあった。「後鳥羽院熊野御幸記」建仁元年(一二〇一)一〇月一〇日条にみえる「ツノセ王子」は「川ノセ」の誤りで当地のこととされる。鹿瀬谷川に沿って五〇〇メートルほど入ると峠の登り口付近に着くが、そこを鹿瀬といい、「続風土記」に「慶安検地の時川瀬村の内なり、元禄に枝郷となり今小名とす」とある。浅野氏時代の慶長一一年(一六〇六)、鹿瀬荘司の家が断絶するのを惜しんで、当時殿(との)村に住していた六郎太夫を鹿瀬に移住させ、姓を鹿瀬とした。 河瀬村こうぜむら 和歌山県:橋本市河瀬村[現在地名]橋本市隅田(すだ)町河瀬下兵庫(しもひようご)村の西、紀ノ川右岸にあり、東西に大和街道が通る。仁安元年(一一六六)一一月日付の公文藤原忠村田畠等処分状案(隅田家文書)に「字講瀬武重垣内」とみえ、明徳五年(一三九四)六月二六日の隅田庄中筋畠帳惣目録案(同文書)に「カウセ」とあり、中世は隅田庄に属した。慶長検地高目録では村高二二七石余、小物成七斗二升六合。上組に属し、慶安四年(一六五一)の上組在々田畠小物成改帳控(土屋家文書)では家数四七(本役一一など)、人数一五二、牛数八、小物成は茶一四斤、紙木八束。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報