隅田庄(読み)すだのしよう

日本歴史地名大系 「隅田庄」の解説

隅田庄
すだのしよう

橋本市隅田町を中心に、恋野こいの大部分紀見きみの一部、および奈良県五條ごじよう市の西端部を含み、紀ノ川を挟んで南北に細長く広がった荘園。延久の荘園整理の際に存続を認められた石清水いわしみず八幡宮寺領二一ヵ庄の一。

寛和二年(九八六)牒状に、当庄は荒廃田を再開発したものであるから開発田の正税を免除するという国司免判状を与えられたとあり、永祚二年(九九〇)の国符により三昧供田二〇町の官物免除、万寿五年(一〇二八)の宣旨で荘官・寄人らの臨時雑役および検田使の入勘を免除され、不輸・不入荘園となった。石清水八幡宮寺の注文によれば、当庄から同寺にある御願三昧堂の「四季懺法・八十四日仏聖灯油・修僧等衣供料并不断香料」が備進されている(以上、延久四年九月五日「太政官牒」石清水文書)。御願三昧堂は永延元年(九八七)藤原兼家が一条院の御願により建立(道長建立説もあり)、隅田三昧堂とも称された(山城名勝志)。その建立に伴って兼家は料所として隅田庄を石清水八幡宮に寄進したと考えられる。しかし兼家が隅田庄を所有していた背景については明確でない。また延久四年(一〇七二)太政官牒所引の国解状に「件庄経重朝臣任所立也」とあるが、経重についても寛平(八八九―八九八)頃に紀伊国司であった重経との関連が指摘されるものの明らかではない。

隅田庄は延久四年には荘田二九町にすぎず(前記太政官牒)免田と寄人(神人)の支配のみを認められた荘園であった。それに対し一二世紀に入って、当庄西隣に覚鑁によって立券された高野山密厳院領相賀おうが庄は明確な四至をもつ一円領域型の荘園であった。この両庄の間に保延三年(一一三七)・応保二年(一一六二)に境相論が起こっているが(応保二年九月二六日付「密厳院政所陳状案」根来要書)、隅田庄は相論に敗れたことから、一円領域型荘園へ転換していったものと推定される。こうした変化を経て荘域は著しく増加した。鎌倉時代に入ると紀ノ川を境に隅田北庄・隅田南庄に二分し、室町時代には荘内を中筋河北河南に三分するよび方が現れる。弘安三年(一二八〇)一一月日付の隅田北庄検田目録案(隅田家文書)では「隅田北御庄内中村」のみの惣田数が三五町余となっており、平安時代と比べ飛躍的な面積の増加となっている。応永八年(一四〇一)九月六日の隅田庄段銭注文案(同文書)になると、中筋一三町余、河南方五四町、河北方六四町余を数えている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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