死人を埋葬し墓を建てる場所。墓場(はかば),墓所(ぼしよ)/(はかどころ)/(はかしよ),墓原(はかわら),霊園ともいう。〈墓地〉を意味する英語cemetery,フランス語cimetièreは,ギリシア語のkoimētērion(〈眠るための場所〉の意)に由来する。英語では,教会付属の墓地をchurchyardとして区別する。
古代エジプトの初期王朝,古王国時代の貴族の墓は,その形状からマスタバ(アラビア語で〈ベンチ〉の意)と呼ばれる。ほぼ1対2の長方形平面で,長手方向を南北に置き,壁面が内側に傾いているのが特色で,日乾煉瓦造であるため,崩壊しにくい形にしてある。しかし,より壮麗なマスタバは,規模も大きく,壁面に凹凸をつけて目だたせた。著名なサッカラの階段状ピラミッド(前2600ころ)は,六つのマスタバを重ねた形状をしており,これが第4王朝の正四角錐ピラミッドに発展する。ギーザのクフ王の大ピラミッド(前2500ころ)のふもとには多数のマスタバがあるが,これらがいわゆる〈ネクロポリス(死者の都)〉を形づくり,古代エジプトでは通例首都に近いナイル川の西岸に設けられた。中王国時代には,ピラミッドのほかに岩山の斜面に掘り込まれた岩窟墓がつくられるようになり,新王国時代ではテーベのネクロポリスに見られるように墓神殿を建てて礼拝し,墳墓そのものは盗掘を防ぐため背後の〈王家の谷〉や〈王妃の谷〉の地下に隠した。庶民の遺体もミイラ化されて,岩窟や地下の共同墓地に集団的に葬られた。古代メソポタミアでは,シュメール人は火葬にした遺体を壺に収め,ときには家のなかに埋葬したらしい。ウル第3王朝(前22世紀後半~前21世紀末)になって,ようやくエジプトの墳墓と比較できるようなシュルギ王,アマルシン王の墓がつくられた。その形状は多数の室を並べたバビロニアの邸宅に近いもので,内部の階段で地下墓室に下りるようになっている。
エーゲ海文明では,ミュケナイ城外のアトレウスの宝庫(前1250ころ)が,切石を積んだ尖頭ドーム型の墓室の前に羨道を設け,土を盛って全体を円墳状に仕立ててある。また,ミュケナイ城内の墳墓(前1500ころ)は,板石で囲んだ直径10mの土地に14個の竪穴を掘り,24体の遺体を金銀の副葬品とともに埋めてあった。古代ギリシア人は,都市の外にネクロポリスを設け,一般的には墓そのものを簡素につくり,ステレstēlēと呼ばれる縦長の板石に浮彫や銘文を刻んで墓石とした。しかし,都市によっては壮麗な墓も見られ,クサントスXanthosのネクロポリスの墳墓群は著名である。また,小アジア,ハリカルナッソスの太守マウソロスの墓(前350ころ)は古代の七不思議の一つとして知られ,イオニア式列柱廊をもつ26m角の角塔状の壮麗な墳墓で,以後その名〈マウソレウム〉は,壮大な墓廟一般を指すようになった。これらイオニア地方の塔状墳墓の形式は,のちのイスラム時代にまで影響を残した。また小アジアの乾燥地では,神祠風正面を岩壁に刻んだ岩窟墓もしばしば見られる。ヘレニズム期から,きわめて芸術性の高い浮彫石棺がつくられるようになり,この習慣がローマに伝えられた。エトルリアでは,エジプトの岩窟墓に似た地下墓室および人像つきの石棺がつくられ,古代ローマ人は,これらとギリシアの石棺をモデルにして,石棺を他の副葬品とともに墓室におさめる慣例をふたたび確立した。ローマ人は墳墓建築に大いに力を注ぎ,各都市のネクロポリスに墓地をもつ円墳やギリシア風の塔状墓や神祠風の墓を建てたほか,ローマの〈パン屋の墓〉(前1世紀)や〈ケスティウスのピラミッド〉(前12ころ)などのような風変りな記念墓をつくった。東方では,ペトラの〈ファラオの宝庫〉(2世紀前期)に代表される岩窟墓が注目に値する。また,ローマのカエキリア・メテラの墓(前25ころ),アウグストゥスの廟(前28ころ),ハドリアヌスの廟(現サンタンジェロ城,135-139)などのような巨大な円塔型墳墓が建てられたほか,ローマのポンポニウス・ヒュラスのコロンバリウム(1世紀)やパルミュラの塔状墳墓のように,墓室の周壁に多数の遺体を葬るロッカー・ルーム式の墓もつくった。初期キリスト教徒の墓地として知られるカタコンベは2世紀ごろからつくられた。地下道の両側に棚状に穴を掘って葬る一種のロッカー・ルーム式である。中世には,教会堂の地下階や堂内の床下に埋葬することが一般的で,その床面や付近の壁面に墓碑の板石を埋め込んだ。ルネサンス以降,石棺に収め,墓室に安置する古代の風が復活し,小神殿や円形神殿型の墓廟建築が流行した。そのころから,教会堂の床下に墓をつくる習慣はすたれ,教会の外に墓地を設け,墓石や墓碑を立てるようになった。
18世紀末以降,大都市の膨張のため墓地が不足し,パリのモンマルトル墓地(1795-1805),ペール・ラシェーズ墓地(1803),モンパルナス墓地(1824)のような大規模な共同墓地公園が,各都市に設けられるようになった。また,20世紀に入ってから戦没者墓地は,同一形式の十字架あるいは板石の墓標を何列にも並べるという歴史上先例のない新しい形式を生み出した。西欧の埋葬は土葬が原則であったが,近代になって北欧で火葬も行われるようになり,墓地の不足からロッカー・ルーム式の墓も復活している。
近代日本の共同墓地は,パリ,ロンドンの共同墓地にならって,明治初年から,新首都となった東京に設置された。まず明治7年(1874)9月1日,現在の港区の青山霊園,豊島区の雑司ヶ谷霊園および染井霊園,台東区の谷中(やなか)霊園の4墓園が開設された。このうち,青山霊園は旧青山邸跡に設けられ,面積27万3000m2で最も大きく,埋葬者は現在約10万人以上といわれている。谷中霊園は谷中の天王寺(旧,感応寺)の境内を利用し,五重塔で知られ,雑司ヶ谷霊園は樹木が豊かで好評であった。しかし,東京の発展により,さらに墓地の需要が高まったため,大正12年(1923)4月,東京市は市外西郊の府中に画期的に大規模な公園墓地,多磨霊園を設置した。面積133万m2,東南隅の正門内の広場から環状道路と放射状道路で3区に分かれた墓域に通ずるようにした。次いで,昭和10年(1935)7月には,千葉県松戸に八柱(やはしら)霊園(104万m2)を設けた。東京以外の都市では,人口に比して寺院が多かったため,東京のように大規模な共同墓地がつくられることはまれであったが,第2次大戦後の人口の都市集中にともない,各都市で公営の墓地を設ける例が急増している。東京都では,さらに昭和23年(1948)に東村山に小平霊園(65万m2),昭和46年(1971)には元八王子に八王子霊園(66万m2)を開設,後者は自然林のなかに設けられた森林墓地の形式をとっている。
→墓
執筆者:桐敷 真次郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…それでも応永22年7月15日の条には〈新古雑乱ス。子細ヲ相尋処ニ面々所意各別也〉とあるので,墓地の整理は見られないようである。明応8年(1499)になってようやく,《大乗院寺社雑事記》に〈極楽坊庭聖〉の存在が伝えられており,整理と管理がはじまったらしい。…
…キリスト教公認後には墓掘人は勢力のある団体で,ダマスス1世が教皇に選挙される際には実力行使に出たほどであった。4世紀から近世まで墓地を売るのは墓掘人の権利となり,墓地を長く保有したい家族を相手に契約を取り交わし契約文を墓石に刻んだ。土葬のヨーロッパでは5年たてば同じ場所に次の死体を埋めるが,3,4回目には土が腐食力を失うので,墓掘人は十分土にかえっていない死体や骨を掘り出すことになる。…
…弥生時代の集落は,規模のうえで縄文時代の大集落とそう変わらないが,防御的性格をもつことで大きく違っている。また,集落に接して共同墓地を備える点も大きな特徴である。家そのものが竪穴住居によって代表される点も縄文時代と変わらない。…
※「墓地」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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