日本歴史地名大系 「橋本市」の解説 橋本市はしもとし 面積:一〇七・八六平方キロ和歌山県の東北隅に位置する。旧伊都(いと)郡の東半を割いてできた市で、西流する紀ノ川が市域を南北に二分する。東は落合(おちあい)川・東(ひがし)ノ川で奈良県五條(ごじよう)市と境し、北は和泉山脈で大阪府河内長野(かわちながの)市、西は吉原(よしはら)川付近で伊都郡高野口(こうやぐち)町に、南は丹生(にう)川付近で同郡九度山(くどやま)町、七霞(ななかすみ)山で高野町に接する。紀ノ川両岸に河岸段丘、低い洪積台地、氾濫原があり、北に和泉山脈の急な南斜面、南に南部山地の北斜面が広がる。南海道(大和街道)と高野参詣道が交わり、また紀ノ川水運の拠点で、交通上の要衝として発展した。天正一三年(一五八五)木食応其が古佐田(こさだ)村の一部を再開発し、次いで紀ノ川に一三〇間の橋を架したことから橋本の地名が起こったという。〔原始〕縄文時代の遺物は、下兵庫(しもひようご)の紀ノ川河岸段丘上から縄文時代後期―晩期の土器破片と石器が発見されているだけである。弥生時代の遺物は、紀ノ川流域平坦地の垂井(たるい)・中下(ちゆうげ)・上兵庫・下兵庫・上田(うえだ)・東家(とうげ)・神野々(このの)・学文路(かむろ)などから出土。このうち紀ノ川支流の宮(みや)川沿いに、中下の血縄(ちなわ)遺跡、垂井の女房が坪(にようぼうがつぼ)遺跡・堂本(どうもと)遺跡・榎塚(えのきづか)遺跡が連なり、この地域が弥生時代には最も発達していた。古墳の代表的なものは古佐田の陵山(みささぎやま)古墳、中島(なかじま)の八幡宮(はちまんぐう)古墳、市脇(いちわき)の市脇古墳群で、後期の簡単な竪穴式古墳が垂井・上兵庫・東家・西畑(にしはた)などにある。隅田(すだ)八幡神社には有名な銘文をもつ人物画像鏡が伝存する。〔古代〕紀ノ川沿いに走る南海道の交通上の要衝として発達し、「万葉集」にみえる真土(まつち)山・角太(すみだ)河原・妻社(つまのもり)・大我野(おおがの)などが市域に比定されている。白鳳期の寺院跡として神野々の河岸段丘上に神野々廃寺跡、古佐田の橋本駅付近に古佐田廃寺跡がある。隅田八幡神社付近の河岸段丘上には条里制の遺構も残る。「和名抄」記載の伊都郡内の郷のうち、賀美(かみ)郷が隅田地区を中心とした地、村主(すぐり)郷が市の西端部から高野口町にかけた地に比定される。 橋本市はしもとし 2006年3月1日:橋本市と伊都郡高野口町が合併⇒【高野口町】和歌山県:伊都郡⇒【橋本市】和歌山県 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「橋本市」の意味・わかりやすい解説 橋本〔市〕はしもと 和歌山県北東部,紀ノ川中流域の市。大阪府および奈良県との境に位置する。1955年橋本町と岸上村,山田村,紀見村,隅田村,学文路村の 5村が合体して市制施行。2006年高野口町と合体。中心市街地の橋本は天正年間(1573~92),木喰応其が豊臣秀吉より免許を得て塩市を開き,紀ノ川に橋をかけたのが起源で,市名もこれに由来。伊勢街道と高野街道の交差点,紀ノ川水運の川上船(かわかみぶね)の終点にあたる水陸交通の要地として発達し,江戸時代には宿駅,御仕入役所が置かれていた。農村部では果樹園芸と採卵が中心の養鶏業が盛ん。また富有柿を特産する。釣竿など竹細工の伝統産業,パイルなどの織物工業も行なわれる。北部の丘陵地は宅地化が著しく,大阪府の近郊住宅地となっている。東部の隅田は中世,葛原氏の隅田党 (→党) の根拠地。国宝『隅田八幡画像鏡』を所蔵する隅田八幡宮をはじめ,利生護国寺 (本堂は国指定重要文化財) ,応其寺など古社寺が多い。北部は金剛生駒紀泉国定公園に,南部は高野山町石道玉川峡県立自然公園に属する。紀ノ川に沿って JR和歌山線,国道24号線が通り,南海電気鉄道高野線,国道370号線,371号線が市域を縦断する。面積 130.55km2。人口 6万818(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by