河田 烈
カワダ イサオ
大正・昭和期の大蔵官僚,政治家 蔵相;貴院議院(勅選);台湾拓殖社長。
- 生年
- 明治16(1883)年9月24日
- 没年
- 昭和38(1963)年9月27日
- 出生地
- 東京
- 別名
- 号=文所,靄渓
- 学歴〔年〕
- 東京帝大法科大学政治科〔明治41年〕卒
- 経歴
- 大蔵省に入り銀行局普通銀行課長、主計局予算課長から大正13年主計局長となり、昭和4年大蔵次官、7年拓務次官、9年岡田啓介内閣の書記官長となり、同年勅選貴族院議員、15年第2次近衛文麿内閣の大蔵大臣となった。国維会に属し、資金統制の強化など統制経済を積極的に推進した。16年東亜海運社長、19年台湾拓殖会社社長、20年大成火災海上社長を歴任。戦後追放となり解除後の27年日華交渉非公式会談の日本代表として日台和平条約に調印。横浜造船会長、日華経済協会会長、恩給特例軍人恩給審議会会長なども務めた。篆刻漢詩をよくした。著書に「帝国歳計予算の話」「三国以後支那歴代興亡略史」「河田烈自叙伝」がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
河田 烈
カワダ イサオ
- 肩書
- 蔵相,貴院議院(勅選),台湾拓殖社長
- 別名
- 号=文所 靄渓
- 生年月日
- 明治16年9月24日
- 出生地
- 東京
- 学歴
- 東京帝大法科大学政治科〔明治41年〕卒
- 経歴
- 大蔵省に入り銀行局普通銀行課長、主計局予算課長から大正13年主計局長となり、昭和4年大蔵次官、7年拓務次官、9年岡田啓介内閣の書記官長となり、同年勅選貴族院議員、15年第2次近衛文麿内閣の大蔵大臣となった。国維会に属し、資金統制の強化など統制経済を積極的に推進した。16年東亜海運社長、19年台湾拓殖会社社長、20年大成火災海上社長を歴任。戦後追放となり解除後の27年日華交渉非公式会談の日本代表として日台和平条約に調印。横浜造船会長、日華経済協会会長、恩給特例軍人恩給審議会会長なども務めた。篆刻漢詩をよくした。著書に「帝国歳計予算の話」「三国以後支那歴代興亡略史」「河田烈自叙伝」がある。
- 没年月日
- 昭和38年9月27日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
河田烈 かわだ-いさお
1883-1963 大正-昭和時代の官僚,政治家。
明治16年9月24日生まれ。大蔵省主計局長をへて浜口・第2次若槻内閣の大蔵次官,斎藤内閣の拓務次官,岡田内閣の書記官長となる。昭和15年第2次近衛内閣の蔵相。貴族院議員。27年中華民国との平和条約締結に全権として調印。昭和38年9月27日死去。80歳。東京出身。東京帝大卒。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
河田 烈 (かわだ いさお)
生年月日:1883年9月24日
大正時代;昭和時代の大蔵官僚。大蔵大臣;貴院議院(勅選);台湾拓殖社長
1963年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の河田烈の言及
【新官僚】より
…既成政党に従属的であったそれまでの官僚主流に対比して,政党の支配を脱しようとする姿勢に,当時としての〈新しさ〉が感じられた。五・一五事件を機に成立した斎藤実内閣の農相に登用され,経済更生運動を指導した[後藤文夫]をはじめ,次の岡田啓介内閣の組閣参謀となり内閣書記官長に就任した河田烈,同内閣が設置した内閣調査局の初代長官となった吉田茂(戦後の首相とは別人)などがその中心とみられた。大正後期から,青年団運動,[選挙粛正運動]などを推進するなかで,一定の連携をつくりあげてきた勢力であり,[国維会]はその背後にある組織として注目された。…
※「河田烈」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」