波多野義常(読み)はたの・よしつね

朝日日本歴史人物事典 「波多野義常」の解説

波多野義常

没年治承4.10.17(1180.11.6)
生年:生年不詳
平安末期の武士。義通の子。相模国(神奈川県)波多野荘を本領とし,右馬允の官を帯した。治承4(1180)年源頼朝が反平家の兵を挙げるに際し,参加を求める使者を義常のもとに遣わしたが,義常はこれを拒絶したばかりか「条々の過言」を吐いた。そのため,頼朝は南関東を平定して鎌倉に入部すると下河辺行平に義常の追討を命じ,義常は行平の到着以前に所領の松田郷自殺を遂げた。波多野氏は一族に中央で活躍する者が多く,12世紀の東国武士団のなかでは異色の存在で,在地における勢力もかなり大きいものがあったと思われる。<参考文献>野口実『坂東武士団の成立発展

(野口実)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「波多野義常」の解説

波多野義常 はたの-よしつね

?-1180 平安時代後期の武士。
父義通の妹が源頼朝の兄朝長の母。相模(さがみ)(神奈川県)波多野荘を本領とする。治承(じしょう)4年頼朝の挙兵に応じなかったため攻められ,10月17日所領の松田郷で自殺した。通称は右馬允(うまのじょう)。名は義経とも。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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