朝日日本歴史人物事典 「波多野義常」の解説
波多野義常
生年:生年不詳
平安末期の武士。義通の子。相模国(神奈川県)波多野荘を本領とし,右馬允の官を帯した。治承4(1180)年源頼朝が反平家の兵を挙げるに際し,参加を求める使者を義常のもとに遣わしたが,義常はこれを拒絶したばかりか「条々の過言」を吐いた。そのため,頼朝は南関東を平定して鎌倉に入部すると下河辺行平に義常の追討を命じ,義常は行平の到着以前に所領の松田郷で自殺を遂げた。波多野氏は一族に中央で活躍する者が多く,12世紀の東国武士団のなかでは異色の存在で,在地における勢力もかなり大きいものがあったと思われる。<参考文献>野口実『坂東武士団の成立と発展』
(野口実)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報