フィリップ(読み)フィリップ[エディンバラこう](その他表記)Philip, duke of Edinburgh

デジタル大辞泉 「フィリップ」の意味・読み・例文・類語

フィリップ(Philippe)

(2世)[1165~1223]カペー朝第7代のフランス王。在位1180~1223。ルイ7世の子。司法行政組織を改革して中央集権化を達成、カペー王朝の最盛期をつくった。第3回十字軍に参加。また、イギリス国王と戦ってフランス内のイギリス勢力を駆逐。
(4世)[1268~1314]カペー朝第11代のフランス王。在位1285~1314。教皇と対立し、三部会の設置、教皇庁のアビニョン移転などにより王権を拡大した。
(6世)[1293~1350]バロア朝初代のフランス王。在位1328~1350。在位中に、イギリス国王エドワード3世との間で王位継承をめぐって百年戦争が起こった。

フィリップ(Charles-Louis Philippe)

[1874~1909]フランスの小説家。貧しい人々の生活を温かい共感をもって描いた。小説「母と子」「ビュビュ‐ド‐モンパルナス」など。

フィリップ(Gérard Philipe)

[1922~1959]フランスの俳優。国立民衆劇場の主演俳優として活躍。映画では「肉体の悪魔」「赤と黒」「モンパルナスの灯」などに主演し、二枚目として人気を得た。

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精選版 日本国語大辞典 「フィリップ」の意味・読み・例文・類語

フィリップ

  1. ( Philippe )
  2. [ 一 ] 二世。カペー朝第七代フランス王(在位一一八〇‐一二二三)。ルイ七世の子。市民階級と結び、封建貴族を打倒し、王領の拡大、中央集権を達成。特にイギリス王と戦ってフランス内のイギリス勢力を駆逐し、国内の司法・行政組織を整備した。第三回十字軍にも参加。(一一六五‐一二二三
  3. [ 二 ] 四世。カペー朝第一一代フランス王(在位一二八五‐一三一四)。フィリップ三世の子。一三〇二年、はじめて都市の代表者を加えた三部会を召集して、ローマ教皇と争い、教皇庁をアビニョンに移させた。また、テンプル騎士団を解散させて中央集権化を図り、絶対王政の基礎を築いた。(一二六八‐一三一四

フィリップ

  1. ( Charles-Louis Philippe シャルル=ルイ━ ) フランスの小説家。下層階級の人々の生活を、素朴に、愛情をこめて描いた。作品に「ビュビュ‐ド‐モンパルナス」「小さき町にて」「若き日の手紙」など。(一八七四‐一九〇九

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フィリップ」の意味・わかりやすい解説

フィリップ[エディンバラ公]
フィリップ[エディンバラこう]
Philip, duke of Edinburgh

[生]1921.6.10. ギリシア,ケルキラ
[没]2021.4.9. イギリス,イングランドウィンザー
イギリス女王エリザベス2世(在位 1952~2022)の夫(王配)。エディンバラ公爵,メリオネス伯爵,グリニッジ男爵。別名フィリップ・マウントバッテン。原名は「ギリシアおよびデンマーク王子フィリッポス」。父はギリシア王ゲオルギオス1世の第4王子アンドレアス(1882~1944),母は初代ミルフォードヘーブン侯爵ルイス・アレグザンダー・マウントバッテンとビクトリア女王の孫娘ビクトリア・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットの長女アリス(ギリシア名アリキ。1885~1969)。
イギリスで育ち,スコットランド北東部エルギン近郊のゴードンストン校,およびデボン県ダートマスの海軍兵学校で学ぶ。1940年1月から第2次世界大戦終結までイギリス海軍に籍を置き,地中海戦域や太平洋戦域で戦った。1947年2月28日,ギリシアおよびデンマークの王位継承権を放棄してイギリスに帰化,母方の姓であるマウントバッテンを名のる。1947年11月20日,遠縁にあたるエリザベス王女と結婚。その前夜に敬称「殿下」の使用が認められ,ガーター勲爵士,グリニッジ男爵,メリオネス伯爵,エディンバラ公爵の称号が与えられた。
1948年第一子チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージ(→チャールズ3世)が誕生し,1950年に長女アン・エリザベス・アリス・ルイーズが,1960年には二男アンドルー・アルバート・クリスチャン・エドワードが,1964年には三男エドワード・アンソニー・リチャード・ルイスが生まれた。1952年2月6日のエリザベスの女王即位までイギリス海軍のフリゲート艦『HMSマグパイ』の艦長を務め,それ以降は女王とともに公私をともにし,年平均 350の公的行事に出席した。
1957年女王からイギリス王配 Prince of the United Kingdomの称号を与えられ,1960年にはマウントバッテン姓が王族の姓ウィンザーと法的に統合され,子孫がマウントバッテン=ウィンザーの姓を使用することが許された。多くの時間を王族としての職務に費やし,さまざまな慈善活動にも取り組んだが,右派的な発言がときに公となり,昔ながらの因習的な上流階級のイメージを払拭したい王室を困惑させることもあった。
1981~96年世界自然保護基金 WWF総裁。また 600万人以上の若者を対象に,社会奉仕活動やリーダーシップ教育,体力向上推進のための国際賞の創設も行なった。90歳を迎えた 2011年には,イギリス海軍の最高名誉職である大提督 Lord High Admiralの称号を授けられた。2017年5月,同年 8月をもって公務から退くことが発表され,8月2日に最後の行事に出席した。2万2000回以上に及ぶ行事に単独で出席するなど,最も多忙な王族の一人であった。

フィリップ(善良公)
フィリップ[ぜんりょうこう]
Philippe III, le Bon

[生]1396.7.31. ディジョン
[没]1467.6.15. ブルーヘ
フランス,第3代ブルゴーニュ公 (在位 1419~67) 。父のジャン (無畏公)からフランドルとブルゴーニュ公・伯領を相続,アルマニャック派による父の暗殺を機にイングランドと同盟関係に入り,1420年イングランド王ヘンリー5世とトロア条約を結び,ヘンリーにフランス王位継承権を認めたが,35年にはシャルル7世とアラスの和約を結んで,フランス王の家臣である旨を宣し (アルマニャック派とブルゴーニュ派の和解) ,マコン,オーセールの伯領やソンムの若干の都市を得た。公の権威はブルーヘ (ブールジュ) や,ヘント (ガン) の服従によってフランドルにおいても確立し,「西ヨーロッパ大公」の名にふさわしい真の領邦国家を建設した。 29年金羊毛騎士団をつくり,ファン・アイクやロジェ・ファン・デル・ワイデンらの美術家を保護し,59年ブルゴーニュ慣習法の公式編纂を行なった。

フィリップ(剛勇公)
フィリップ[ごうゆうこう]
Philippe II, le Hardi

[生]1342.1.17. ポントアーズ
[没]1404.4.27. ハル
フランス,ブルゴーニュ公 (在位 1364~1404) 。フランス王ジャン2世の第4子。ポアティエの戦い (1356) に出陣して「剛勇公」の通称を得た。 1364年ブルゴーニュ公に封じられ,さらに妻マルグリット・ド・フランドルの相続したフランドル,アルトアなどを合せて広大な所領を支配し,ヨーロッパ有数の実力者となった (84) 。甥のフランス王シャルル6世を後見してオルレアン公ルイと対立し,ブルゴーニュ派アルマニャック派抗争の端を開いた。彼はまた文芸を愛し書籍を収集した。

フィリップ
Phillipe, Gérard

[生]1922.12.4. カンヌ
[没]1959.11.25. パリ
フランスの俳優。地方の舞台で巡業などを経験したのち,1943年パリに進出,コンセルバトアールに学ぶ。映画『肉体の悪魔』 (1947) ,『悪魔の美しさ』 (49) などでデリケートな甘い容姿に加え洗練された演技力を示し,一躍名声を得た。一方舞台でも『ル・シッド』 (51) で好評を得たのち,国立民衆劇場に参加,『ロレンザッチオ』 (53) などではなばなしい成功を収めた。そのほか,映画『花咲ける騎士道』 (52) ,『赤と黒』 (54) などが代表作であるが,若くして癌に倒れた。没後,夫人により回想的小説『ためいきの時』 Le Temps des soupirsが書かれた。

フィリップ
Philippe, Charles Louis

[生]1874.8.4. アリエ,セリイ
[没]1909.12.21. パリ
フランスの小説家。 20歳でパリに出て,区役所の一吏員として一生を過した。かたわらマラルメらにすすめられて詩を書いたが,やがて小説に向い,『ランクロ』誌の同人となった。庶民の日常生活を描いたが,対象を暖かい共感の目で見,特定のイデオロギーの立場によらず直接庶民の心情に触れた作品が多い。代表作『母と子』 La Mère et l'enfant (1900) ,『ビュビュ・ド・モンパルナス』 Bubu de Montparnasse (01) ,『ペルドリ爺さん』 Le Père Perdrix (02) ほか多くの短編がある。

フィリップ
Phillip, Arthur

[生]1738.10.11. ロンドン
[没]1814.8.31. サマセット,バス
イギリスの海軍軍人。オーストラリアのニューサウスウェールズ初代総督。1755年海軍に入隊し,1788~90年シドニーに流刑囚植民地を建設。1792年健康を害して帰国。1814年大将。

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改訂新版 世界大百科事典 「フィリップ」の意味・わかりやすい解説

フィリップ
Gérard Philipe
生没年:1922-59

フランスの俳優。戦後フランス映画の代表的二枚目スターであるとともに,舞台では〈傷のないダイヤモンド〉と称賛されたほどの名優。南フランスのカンヌに生まれ,ナチ占領下のパリから南フランスに逃げてきた映画人たちに接して映画や演劇に関心をもち,舞台や映画に端役出演したのちパリのコンセルバトアール(国立音楽演劇学校)に学び,卒業後,舞台でカミュの《カリギュラ》(1945)の主役を演じて人気を不動のものにし,さらにラディゲの小説を映画化したクロード・オータン・ララ監督の《肉体の悪魔》(1947)でブリュッセル映画祭の最優秀男優賞を受賞して国際的なスターとなった。その後クリスティアン・ジャック監督《パルムの僧院》(1948),《花咲ける騎士道》(1952),ルネ・クレール監督《悪魔の美しさ》(1950),《夜ごとの美女》(1952),マルセル・カルネ監督《愛人ジュリエット》(1951),ルネ・クレマン監督《しのび逢い》(1954),クロード・オータン・ララ監督《赤と黒》(1954),ジャック・ベッケル監督《モンパルナスの灯》(1957),ロジェ・バディム監督《危険な関係》(1959)などに出演し,洗練された洒脱な演技と個性の魅力で圧倒的な人気を集めた。1951年以降はジャン・ビラール主宰の国立民衆劇場(TNP(テーエヌペー))に属して演劇に情熱をそそぎ,《エル・シド》《ハンブルグの王子》《ロレンザッチオ》などの名舞台を演じ,またハウプトマンの叙事詩を映画化した《ティル・オイレンシュピーゲルの冒険》(1956)を記録映画作家ヨリス・イベンスと共同監督している。しかし,ブニュエル監督《熱狂はエル・パオに達す》(1959)に出演したのを最後に心臓発作のため36歳で急死した。61年にはフランスで記念切手が発行された。なお,1953年に第1回フランス映画祭に出席するため日本を訪れ,そのとき見た日本映画の優秀さをフランスの映画史家ジョルジュ・サドゥールに熱狂的に話し,それがやがて日仏交換映画祭が開催される一つのきっかけとなったといわれる。
執筆者:


フィリップ
Charles-Louis Philippe
生没年:1874-1909

フランスの小説家。貧しい木靴工の息子として生まれ,父に死なれてからは母とともに物乞い生活をしたことさえある。貧弱な体格では当初志望の理工科大学への入学も不可能とわかり,文学の道を志すにいたる。パリではいろいろと零細な仕事を経た後に,バレスの口ききでパリ市の第7区役所に吏員としての職を得た。このような境遇からうかがわれるように,彼の作品の題材はつねに貧しい人たちの貧しい生活であり,それをイデオロギーの色眼鏡を通さずに,哀愁をこめて的確に描くのが,彼の小説家としての本領であった。当時のフランス文壇の支配的傾向であった象徴主義からも自然主義からも等しく遠い彼の作品は,後のポピュリスムの文学に道を開く態のものだった。作品に《四つの悲しい恋の物語》(1897),《やさしいマドレーヌと哀れなマリー》(1898),《母と子》(1900),《ビュビュ・ド・モンパルナス》(1901),《ペルドリ爺さん》(1903)などがある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「フィリップ」の意味・わかりやすい解説

フィリップ(Charles-Louis Philippe)
ふぃりっぷ
Charles-Louis Philippe
(1874―1909)

フランスの小説家。中部フランスのアリエ県セリィに貧しい木靴職人の子として生まれる。病弱と貧困のため学業を断念、20歳でパリに出て市役所の下級職員となり、34歳で世を去るまでこの職にあった。初めはマラルメと文通するなど象徴主義に関心をもったが、やがてトルストイ、ドストエフスキーなどの影響を受け、社会主義思想の文芸誌『ランクロ』l'Enclosの同人となり、自己の体験に基づきながら、下層労働者・娼婦(しょうふ)など社会の底辺に生きる恵まれない人々の苦しみを描いていった。演劇をも愛し1897年「市民劇場」を主宰したが、たちまち官憲の弾圧を受けた。雑誌『NRF(エヌエルエフ)』にも創成期から参加し、ジッドらとも親交を結んだ。清新にして平易な文体と豊かな感受性をもってさまざまな大衆生活を描いた彼の文学は深い人間愛に根ざしており、ジロドゥー、ラルボー、ジャリなど肌合いを異にする作家たちからも高く評価された。代表作に、地方出の青年の一娼婦に対する悲しくも無力な愛を描いた『ビュビュ・ド・モンパルナス』(1901)があるほか、『母と子』la Mère et l'Enfant(1900)、『ペルドリ爺(じい)さん』le Père Perdrix(1902)などの中編小説がある。死後『小さき町にて』(1910)、『朝のコント』(1916)の短編小説集が出版されたが、いずれも職人・工夫・乞食(こじき)などの生活を気どりのない筆致で描いた珠玉の小品で、短編小説家フィリップの独特な魅力を伝えている。

[須藤哲生]

『淀野隆三訳『ビュビュ・ド・モンパルナス』『小さき町にて』『朝のコント』(岩波文庫)』『外山楢夫訳『若き日の手紙』(岩波文庫)』


フィリップ(4世)
ふぃりっぷ
Philippe Ⅳ
(1268―1314)

カペー朝第11代のフランス王(在位1285~1314)。あだ名は端麗王le Bel。フィリップ3世の子。婚姻や封建法などにより、シャンパーニュその他を王領に加え、ローマ法の習練を積んだ法律顧問に補佐されて、強力な中央集権政治を実現した。即位当初、フランドルとギエンヌをめぐってイギリス王エドワード1世と争ったが不調に終わった。戦争による財政難に対処するため、聖職者課税を企図したが、この結果教皇ボニファティウス8世との間に深刻な対立を引き起こした。王はフランス身分制議会の始まりとされる三部会を開き(1302)、聖俗貴族や都市の支持を取り付けるとともに、兵を派して、ボニファティウス8世をアナーニの別荘に急襲させた(1303、アナーニ事件)。ボニファティウス8世の死後、新教皇クレメンス5世は王に屈し、1309年アビニョンに居を移した(アビニョン教皇庁)。また十字軍時代に各国の王侯の寄進によって富裕となっていたテンプル騎士団に着目し、この騎士団を解散させて、その所領や財産を没収し、国王の財庫を豊かにしようと図った。当時テンプル騎士団はフランスに本拠を移していたが、教皇によって王権外にたつ特権を与えられていたから、国王の集権政治にとって障害にもなっていた。王は教皇クレメンス5世の抵抗を抑えて、団長ジャコブ・ド・モレー以下の団員を異端として火刑に処した(1314)。

[井上泰男]


フィリップ(2世)(ブルゴーニュ公)
ふぃりっぷ
Philippe Ⅱ
(1396―1467)

フランスのバロア家系第3代ブルゴーニュ公(在位1419~67)。あだ名は善良公le Bon。百年戦争中、1419年非業の死を遂げた父公を継いで、イングランド・ランカスター王家との同盟に踏み切る。翌年ランカスター王家とバロア王家の和平を斡旋(あっせん)し(トロアの和約)、1422年、イングランド王ヘンリー5世とフランス王女マルグリットとの間の子ヘンリー(アンリ)6世がたって両王家が合同すると、関心をネーデルラントに向け、その地の諸公伯領の領有を図った(ネーデルラント継承戦争)。その間、北フランスはヘンリーの叔父ベドフォード公ジョンが、ロアール川以南は廃嫡された王太子シャルル・ド・バロア(後のシャルル7世)の臨時政府が押さえ、いずれもフィリップの出方をうかがう態勢をとった。1428年ネーデルラントの取得が事実上なり、ここにブルゴーニュ公家の版図は南東フランスのブルゴーニュからネーデルラントにかけて帯状に形成され、昔の「ロタールの国」の再現を思わせた。しかし1429年オルレアンの攻防を経て、1435年アラスの和約にフィリップはシャルル7世と和解し、フランスの外に国家を建てる機会を自ら捨てた。「お人よし」を意味するあだ名の由来はここに求められる。彼の代、公国の財政規模はバロア王家を除いてヨーロッパ最大であり、彼はフランス王に臣従せず、まさに「西方の大公」の尊称にふさわしかった。しかし公国は国家としての一体性を欠き、彼の親フランス王家志向はネーデルラントの離反を招いた。

[堀越孝一]


フィリップ(2世)(フランス王)
ふぃりっぷ
Philippe Ⅱ
(1165―1223)

カペー朝第7代のフランス王(在位1180~1223)。ルイ7世の子。あだ名オーギュストAuguste(尊厳王)はローマ皇帝の別称「アウグストゥス」に由来。「国王は王国の皇帝」とする立場から、フランス国王に対する神聖ローマ皇帝の優位を認めなかったといわれる。彼はカロリング朝の後裔(こうえい)イザベル・ド・エノーを妃としてカロリング朝との結び付きを強調し、王太子ルイを彼の生前から王位につけ、カペー朝の世襲制を名実ともに確立した。第3回十字軍にはイギリス王リチャード1世とともに参加したが(1190)、リチャードと不和になり帰国した。次のイギリス王ジョンのとき、父王ルイ7世の治世にプランタジネット家のものになっていた所領のうち、ノルマンディー、アンジュー、メーヌ、ポアトゥーなどを、封建法上の手続によって奪封した。ドイツ皇帝オットー4世と結んでこの処置に対抗したジョン王をブービーヌの戦い(1214)で破った。さらに余勢を駆って、イギリスのバロン層の反乱を機会に王太子ルイをイギリスに遠征させたが(1216)、これは失敗した。しかし、大陸では旧イギリス領の支配を確保したばかりか、オーベルニュやシャンパーニュをも王領に併合し、トゥールーズ伯とアルビジョア派に対する十字軍を支持して、南フランスにも王権を拡大する道を開いた。内政面でも、都市コミューンを認可することで都市領主の弱体化を図り、定期金知行(ちぎょう)(フィエフ・ラント)の政策によって多方面の封臣を獲得するなど敏腕を振るった。王領の新しい行政機構として注目されるのは、有給官僚のバイイを、これまでの世襲職のプレボの上位に置き、裁判の審級制を開始して、プレボの独立性を抑えたことである。後の高等法院や財務官房も彼の治世にその端緒が置かれたもので、カペー家の王政は拡大された王領の基礎のうえに飛躍的に発展した。

[井上泰男]


フィリップ(Gérard Philipe)
ふぃりっぷ
Gérard Philipe
(1922―1959)

フランスの俳優。カンヌに生まれる。法律を学ぶが、映画監督M・アレグレの勧めで演技を習い、ニースのカジノ座で初舞台を踏む。パリに出てコンセルバトアールで演技を磨き、カミュの『カリギュラ』(1945)の主役で不動の地位を築き、1951年以降はTNP(テーエヌペー)(国立民衆劇場)の主演俳優として活躍した。映画では『白痴』(1946)で認められ、『肉体の悪魔』(1947)でスターの座を占め、以来もっぱらロマンチックな役柄で人気を集めたが、心臓麻痺(まひ)のため36歳で急逝。ほかに映画の代表作として、『花咲ける騎士道』『夜ごとの美女』(ともに1952)、『赤と黒』(1954)、『モンパルナスの灯(ひ)』(1957)、『危険な関係』(1959)など。

[登川直樹]


フィリップ(3世)
ふぃりっぷ
Philippe Ⅲ
(1245―1285)

カペー朝第10代のフランス王(在位1270~85)。ルイ9世の子。大胆王le Hardiのあだ名があるが、実際には性格が弱く、廷臣たちの影響を受けやすかった。叔父でシチリア王を兼ねるアンジュー家のシャルルの対外政策を支持したが、シチリアの晩鐘事件(1282)でフランス兵が虐殺され、アンジュー家のシチリア支配が瓦解(がかい)してからは、彼がアラゴン十字軍の主役となり、アラゴン王ペドロ3世と戦うことになった。しかしカタルーニャでの戦いは、シチリアにもましてフランス側の惨敗に終わり、また疫病が軍隊内に流行して、王自身も1285年10月、ピレネー山麓(さんろく)のペルピニャンにおいてその犠牲となって没した。

[井上泰男]


フィリップ(6世)
ふぃりっぷ
Philippe Ⅵ
(1293―1350)

バロア朝初代のフランス王(在位1328~50)。父はカペー王家のフィリップ4世の弟バロア伯シャルル。母は第二アンジュー家系のマルグリット。フィリップ4世の3人の息子が後継の男子に恵まれず相次いで死去したのち、1328年、フランス王選出の封建会議によって選ばれて即位。このとき候補者は複数あり、なかでもフィリップ4世の娘の子、イングランド王エドワード3世は有力であった。エドワード3世はいったんこの決定を認めながら、のち1340年、フランドルに進駐してフランス王を称した。百年戦争の端緒である。フィリップ6世は、スロイスの海戦に海軍を失い、1346年ノルマンディーに兵を入れたエドワード3世にクレシーで敗れ、翌年カレーを占領された。戦局は不利であり、加えて経済不況は物価の高騰と通貨の混乱を招き、財政難打開のために塩の専売特権を設定したのが、彼の唯一の業績であった。彼の死去した1350年は、黒死病(ペスト)がようやく魔の手を収めようとしているころであった。

[堀越孝一]


フィリップ(1世)
ふぃりっぷ
Philippe Ⅰ
(1342―1404)

フランスのバロア家系初代ブルゴーニュ公(在位1363~1404)。フランス王ジャン2世の第4子。百年戦争のポアチエの戦い(1356)で、大胆公le Hardiのあだ名を得た。1363年にブルゴーニュ公領を授封され、さらに妃マルグリットの父でフランドル伯のルイ・ド・マールの死(1384)にあたり、その遺領フランドル、フランシュ・コンテ、ルテル、アルトアの諸伯領を加えた。フランス王の兄シャルル5世の死(1380)ののち、ブルボン公とともに、若きシャルル6世の摂政(せっしょう)として、フランス王国の政治を指導した。一族の巧妙な婚姻政策によって、ブルゴーニュ公家のネーデルラントへの拡張を準備した。1388年にシャルル6世の親政が始まったが、まもなく、王の狂気は本格的な精神錯乱となり(1392)、その摂政職およびイギリスやドイツに対する政策をめぐって、王弟のオルレアン公ルイと激しく対立した。

[井上泰男]

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百科事典マイペディア 「フィリップ」の意味・わかりやすい解説

フィリップ[2世]【フィリップ】

カペー朝フランス国王(在位1180年―1223年)。ルイ7世〔1120ころ-1180〕の子。ローマ皇帝アウグストゥスに由来する〈オーギュストAuguste〉の異名で呼ばれる。非凡の才により皇太子時代から諸侯をおさえていた。フランス内の英国領をめぐって英国と抗争,ノルマンディー等を獲得した。1214年英国王ジョンをブービーヌの戦で破り内外に権勢を示し,アルビジョア十字軍を支持して南フランスにも王権を拡大した。
→関連項目カペー朝十字軍ジョン[欠地王]パリリチャード[1世]

フィリップ[4世]【フィリップ】

カペー朝フランス国王(在位1285年―1314年)。美男王と呼ばれる。フィリップ3世の子。諸種の策略で王領をふやし,即位後は有能な法律顧問を用いて王権強化,財政増収に努めた。聖職者課税をめぐり教皇ボニファティウス8世と争いアナーニ事件で屈服させ,のち教皇のアビニョン捕囚を始めた。1302年最初の三部会を召集,またテンプル騎士団を解散させるなど近世国家の基礎を築いた。
→関連項目カペー朝クレメンス[5世]ボニファティウス[8世]

フィリップ

フランスの俳優。戦後フランス映画を代表する二枚目スター。カンヌ生れ。法律学校をへてパリのコンセルバトアール(国立音楽演劇学校)に学び,舞台でA.カミュの《カリギュラ》を演じて人気を得る。映画ではC.オータン・ララ監督の《肉体の悪魔》(1947年)で国際的なスターとなり,C.ジャック監督《パルムの僧院》(1947年),R.クレール監督《悪魔の美しさ》(1950年),R.クレマン監督《しのび逢い》(1954年),J.ベッケル監督《モンパルナスの灯》(1957年)などに出演し,洗練された演技と個性を発揮した。1951年以降は演劇にも力をそそぎ,〈傷のないダイヤモンド〉と称された。癌により早逝。

フィリップ

フランスの作家。パリ市役所に勤めながら,《母と子》(1900年),《ビュビュ・ド・モンパルナス》《ペルドリ爺さん》などで貧者の生活感情を素朴に表現。にじみ出る暖かい人間愛の表現などから,ポピュリスムの先駆者のひとりとみなすことができる。ほかに《小さき町にて》などの短編集や書簡集がある。
→関連項目ポピュリスム

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旺文社世界史事典 三訂版 「フィリップ」の解説

フィリップ(2世)
Philippe Ⅱ

1165〜1223
カペー朝第7代のフランス王(在位1180〜1223)。通称は尊厳王(Auguste)
ルイ7世の子。第3回十字軍に参加したが,いち早く帰国。ノルマンディーの領有をめぐってイギリスのリチャード1世・ジョン王(欠地王)らと争ってフランス領内のイギリス領(ノルマンディー・メーヌ・トゥレーヌ・アンジューなど)を没収し,行政面でも王権拡大に努力した。また,アルビジョワ十字軍を支持して南フランスに王権を浸透させた。王領内の司法制度を整え,のちの高等法院の基礎を築いた。

フィリップ(4世)
Philippe Ⅳ

1268〜1314
カペー朝第11代のフランス王(在位1285〜1314)。通称は端麗 (たんれい) 王(le Bel)
王権の強化につとめ,テンプル騎士団を解散させて全財産を没収。また,聖職者への課税問題からローマ教皇ボニファティウス8世と争って,1302年初めて三部会を召集し,03年にはアナーニ事件で教皇を憤死させた。その後新教皇クレメンス5世を1309年に南フランスのアヴィニョンに移して監視下に置いた(教皇のバビロン捕囚)。

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世界大百科事典(旧版)内のフィリップの言及

【百年戦争】より

…1360年のブレティニー・カレー条約までを第1期,1415年のアザンクールの戦,もしくは1420年のトロアの和約の前と後を第2期,第3期に分けることができる(図)。
[ブレティニー・カレー条約まで]
 1337年,フランス王フィリップ6世(在位1328‐50)は,1328年に彼が即位したときイギリス王エドワード3世がアキテーヌ(ギュイエンヌ)公領について彼に立てた臣従誓約に不備があったと言いたてて,公領の没収を宣言した。エドワード3世はこれに対し,フィリップ6世を〈自称フランス王〉と呼び,フランス王の封臣としての立場を自ら解除した。…

【シュタウフェン朝】より

…とりわけ,ハインリヒ6世とシチリア王女コンスタンツェとの結婚を通じて,シチリア王国がシュタウフェン朝の皇帝の手中に帰したことは,すべての反シュタウフェン政治勢力を結集せしめる結果となった。そして,1197年,ハインリヒ6世が2歳の王子(フリードリヒ2世)をシチリアに残して夭折すると,この機をとらえた教皇は諸侯を動かしてウェルフェン家のオットー4世Otto IV(在位1198‐1215)をドイツ国王に選出せしめ,これに対抗するシュタウフェン派は皇帝の末弟フィリップPhilipp(シュワーベン公)を擁立,ドイツは二重国王体制の混乱に陥る。 1208年,フィリップが私怨によって暗殺され,中心を失ったシュタウフェン家の勢力を再び興したのは,フリードリヒ2世であった。…

【宗教改革】より


[スイスの宗教改革]
 これより先,1522年以来,エラスムスとルターの影響下に,ツウィングリがスイスのチューリヒで市政府と提携しつつ宗教改革運動を展開し,この運動はバーゼル,ベルンなどにも広がっていた。ルター派のヘッセン方伯フィリップPhilipp der Grossmütige(1504‐67)は,ドイツのプロテスタントとツウィングリ派とを合同させようと図り,29年,マールブルクの居城で,ルター,メランヒトンらとツウィングリらスイスの改革指導者との宗教会談(マールブルク会談)を開かせたが,聖餐の典礼の解釈をめぐって両者は意見が合わず,合同の試みは挫折した。まもなく起こったスイスのカトリック諸州との戦争で,ツウィングリが31年に陣没したのち,この地の宗教改革は壊滅にした。…

【ヘッセン】より

… 1247年チューリンゲン方伯家の男系断絶ののち,ブラバント家のハインリヒ1世Heinrich I(1244‐1308)がヘッセン方伯となり,92年帝国諸侯に列せられた。方伯は1277年以降カッセルに居城を構え,ヘッセンに勢力を伸ばそうとするマインツ大司教と争いつつ支配圏を広げ,フィリップ寛仁伯Philipp der Grossmütige(1504‐67)の時代にその勢力は絶頂に達した。時あたかも宗教改革の時代,彼は1526年自国にプロテスタンティズムを導入するとともに,27年ドイツ最初のプロテスタントの大学としてマールブルク大学を創立,またルター派とカルバン派の仲介を試みるなどプロテスタント諸侯の中心として活躍した。…

【ブルゴーニュ公国】より

…ヌベール,オーセール,マコンなどは分離して,それぞれ伯領をつくった。
【バロア家系ブルゴーニュ公家】
 1361年,最後の当主フィリップ・ド・ルーブルの死後,直系の相続者を欠いた公領は,いったんフランスのバロア王家に吸収されたのち,1363年,王家当主ジャン(ジャン2世)の末男フィリップに与えられた。これがバロア家系ブルゴーニュ公家の起源である。…

【国立民衆劇場】より

…ビラールは主宰していたアビニョンの野外劇フェスティバルの方式をこの大ホール(座席数約2700)にも適用し,額縁舞台の慣習を打ち破り,チップ制を廃止し,観客組織を強化するなどして,ことに50年代,失われた原初の演劇の感動を今日の大観衆に分けもたせることに成功した。なお,これにはG.フィリップやM.カザレスら名優たちの活躍も大いにあずかっている。シェークスピア,コルネイユ,モリエール,クライストなど古典の読み直しと,ブレヒト劇のフランスへの紹介の功が特筆される。…

※「フィリップ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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