津野庄(読み)つののしよう

日本歴史地名大系 「津野庄」の解説

津野庄
つののしよう

須崎市のさくら川・新荘しんじよう川流域を荘域とし、のちには現高岡郡葉山はやま村・東津野ひがしつの村・檮原ゆすはら町域まで津野庄とよばれる。京都下鴨神社の荘園で、同社領潮江うしおえ(現高知市か)が康和二年(一一〇〇)の大地震で海没したため、同年二月二七日、土佐国司藤原有佐によって新たに「吾井郷津野村、号津野庄」と立券された(東洋文庫蔵「兼仲卿記」弘安六年一一月・一二月巻紙背の年未詳「官宣旨案」)

平安末期に下鴨社の禰宜であった祐季は、位階の上進を願ったが許されず、代りに疲弊した社領を立直すことを理由に津野保を相伝の所領として与えられ、毎年三〇石を進納することとなった。当時の津野保の範囲は、「東限本庄堺、西限津野河西山、北限□杠寺山、南限海」(同官宣旨案)という四至から、現須崎市吾井郷あいのごうの通称為貞ためさだ弘岡ひろおかみやだににかけた桜川の本・支流域と推定される。これより前の保延四年(一一三八)荘内に利田があるとして四至が縮められているが(同官宣旨案)、下鴨社は周辺の開発を積極的に進めたようで、おおごう賀茂神社にあった本地仏の裏書に「津野庄多野郷賀茂本地仏 寿永二年正月日」とみえ(古文叢)、立荘後八三年の寿永二年(一一八三)には荘域は西南の多ノ郷まで拡大している。開発は新荘川流域にまで及び、桜川流域の吾井郷を中心として多ノ郷・桑田山そうだやま神田こうだ押岡おしおかから須崎東部にかけた地域を津野本庄、新荘川流域の上分かみぶん下郷しもごう・下分・いけうちと須崎西半部を津野新庄といった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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