デジタル大辞泉 「桜川」の意味・読み・例文・類語
さくら‐がわ【桜川】[茨城県の川]
茨城県中央部を流れる川。水戸市内で千波湖に沿い、那珂川に合流する。
茨城県中西部の市。2005年10月岩瀬(いわせ)町,真壁(まかべ)町と大和(やまと)村が合体して成立した。人口4万5673(2010)。
桜川市北部の旧町。旧西茨城郡所属。人口2万2739(2000)。加波山の北にあり,町域は八溝山地南部の小盆地を占める。中心集落の岩瀬は,JR水戸線(1889開通)と関東鉄道筑波線(1987廃止)の分岐点で,鉄道の開通を契機に商業中心として発展した。2008年には北関東自動車道の桜川筑西インターチェンジが開通している。農業は米作が中心で,葉タバコも栽培されている。北部の山地では花コウ岩の採石が行われ,石材加工や粘土瓦の製造が盛んである。磯部付近の桜川は桜の名所で,謡曲《桜川》の舞台として知られ,名勝に指定されている。735年(天平7)行基の開山と伝える富谷観音(小山寺)の三重塔(重要文化財)は1465年(寛正6)の建造である。月山寺,鴨大神御子神主玉神社,磯部稲村神社など古社寺が多い。
桜川市南部の旧町。旧真壁郡所属。人口2万0039(2000)。筑波山の北にあり,東部,南部は筑波山地の山麓,西部は台地となり,中央を桜川が南流して霞ヶ浦に注ぐ。中心集落の真壁は中世には真壁氏の支配下にあり,近世初期には真壁藩の城下町であった。明治期には製糸業が盛んになり,大正期以降は筑波山地山麓から採掘された花コウ岩を,土木・建築用や墓石,石灯籠に加工する石材工業が主産業となった。現在ほかに地場産業として製粉・製めん業や酒造業がある。葉タバコやトマト,ハクサイなど野菜も産する。筑波山北麓(裏筑波)には筑波高原キャンプ場があり,水郷筑波国定公園に属する。
執筆者:千葉 立也
1172年(承安2)真壁長幹が真壁城を築いて本拠とし,城の西側の地に小城下町が形成された。1602年(慶長7)真壁氏は秋田に移り,06年浅野氏が入封したが,22年(元和8)常陸国笠間に移封して廃城となった。以後,人家の密集した部分は町屋(まちや)村,古城のある部分は古城(ふるしろ)村とよばれ,ともに明治初年まで笠間藩領であった。1747年(延享4)以後,笠間藩(牧野氏)は町屋村に陣屋を置き,真壁領を支配させた。86年(天明6)町屋村の家数278,人数1072,馬48である。17世紀後半から六斎市が開かれ,酒・しょうゆの醸造業や石材加工も興り,周辺農村の商品流通の拠点として,在郷町の性格が強まった。とくに真岡(もおか)木綿生産地帯の一環として,縞木綿・さらし木綿の生産と取引が活発になり,六斎市も木綿取引を中心とする定期市に変じたが,19世紀に入ると周辺農村自体の商品流通が展開し,町屋村の定期市や商品取引は停滞した。1876年11月に地租改正反対一揆として有名な真壁騒動が発生した。
執筆者:長谷川 伸三
桜川市中部の旧村。旧真壁郡所属。人口7556(2000)。筑波山地北部の西麓にあり,中央を霞ヶ浦に注ぐ桜川が南流する。JR水戸線が通じる。近世にはワタの栽培が盛んで,木綿生産の中心地であった。明治期には筑波山地から採掘される花コウ岩を利用した石材業が盛んになり,現在も花コウ岩の墓石,灯籠,建材などの産地として知られる。雨引(あまびき)山麓の真言宗楽法寺(雨引観音)は坂東三十三所24番札所で,延命,子育ての観音として知られ,寺域は桜の名所である。4月10~11日には関東三大奇祭の一つといわれる〈マダラ鬼神祭〉が行われる。
執筆者:千葉 立也
(1)能の曲名。四番目物。狂女物。世阿弥作。シテは桜子の母(狂女)。九州日向に住む桜子の母のもとに,人買いの男(ワキヅレ)が尋ねて来る。母の貧窮を見かねた桜子が身売りをしたので,その代金と書置の文を届けに来たのだった。母は泣く泣く家を迷い出る。東国常陸の桜川では花が満開で,近くの磯部寺(いそべでら)の住職(ワキ)が弟子の少年(子方)を連れて花見に出かける。そこへすくい網を持った狂女(後ジテ)が来かかって,物狂いのていを見せ(〈カケリ〉等),水面に散りかかる花びらをすくい,桜は故郷の神,木花之咲耶姫(このはなのさくやびめ)の神木でもあり,わが子の名であるといって落花を惜しむ(〈クセ・網ノ段〉)。やがて僧に連れられてきた少年がわが子とわかった狂女は,連れ立って故郷へ帰って行く。狂女物の典型的構成で素直にまとめた能で,クセと網ノ段が中心。長唄舞踊曲《賤機帯(しずはたおび)》などの原拠。
執筆者:横道 万里雄(2)地歌箏曲の曲名。(a)藤永検校(1758年登官)作曲の三下り端歌。歌詞のほとんどを謡曲から採用。(b)光崎検校(1821年登官)作曲の京風手事物で,箏の手も自作。石野某作詞。〈波の花こそ……〉から〈げに面白や〉までは謡曲に拠るが,能の物語とは関係なく,桜川の初春のようすを歌っている。手事は2段あり,初段には〈芸妓三ッ物〉の《八重霞(やえがすみ)》の手事の初段を倍間で合わせることができ,二段目には〈砧地〉を合わせる。
執筆者:久保田 敏子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
西茨城郡岩瀬町の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
茨城県中西部に位置する市。2005年(平成17)、西茨城郡岩瀬町(いわせまち)、真壁(まかべ)郡真壁町、大和村(やまとむら)が合併して市制施行、桜川市となった。南境にそびえる筑波山(つくばさん)と北方に連なる鶏足(とりあし)山地の間に開けた盆地を占める。北東端部の鏡ヶ池(かがみがいけ)に発する桜川が、ほぼ南西方に向かって市域を貫流し、東部は山地の山腹斜面、西部は桜川の低地と真壁台地からなる。北部をJR水戸線、国道50号、北関東自動車道が横断し、桜川筑西(ちくせい)インターチェンジがある。中心部は県道7号、41号などによってつくば市、筑西市と結ばれる。JR水戸線岩瀬駅と土浦を結んでいた筑波鉄道は1987年(昭和62)3月末で廃止された。桜川は古来桜の名所として知られ、磯部(いそべ)付近の桜川は謡曲『桜川』の舞台にもなった。現在、磯部稲村神社(いそべいなむらじんじゃ)参道一帯の桜(シロヤマザクラが中心)は国の名勝・天然記念物。市名もこの川名に由る。
真壁町古城(ふるしろ)の真壁城は1172年(承安2)に築かれたといい、その後真壁氏一族の本拠地となった。1602年(慶長7)真壁氏は主家佐竹氏に従って出羽秋田に移り、1606年浅野氏が真壁城主となる。しかし、浅野氏は1622年(元和8)笠間(かさま)城(笠間市)に移り、真壁城は廃城となった(城跡は国指定史跡)。以降市域は笠間藩領などで推移。真壁城下(真壁町)は町屋村と古城村に分けられ、町屋村には笠間藩の陣屋が置かれた。また周辺農村の商品流通の拠点として市も開かれ、市街を形成(真壁市街は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定)。明治時代、東隣石岡(いしおか)市との境にそびえる加波山(かばさん)は自由民権運動の加波山事件の舞台となった。
主産業は農業で、米、トマト、キュウリ、カボチャ、ユズなどを栽培。加波山からは良質の御影石(みかげいし)が切り出され、灯籠(とうろう)、石碑などの石材品を生産する花崗岩(かこうがん)石材業が盛ん。電気、機械などの工場もある。筑波山、加波山は水郷筑波国定公園の一部。月山寺(がっさんじ)の網代笈(弁慶所持といわれる)、岩瀬町富谷(とみや)にある小山(おやま)寺(富谷観音)の三重塔はともに国指定重要文化財。面積180.06平方キロメートル、人口3万9122(2020)。
[編集部]
茨城県南部、稲敷郡(いなしきぐん)にあった旧村名(桜川村(むら))。現在は稲敷市の北東部を占める地域。村内を流れる野田奈(のだな)川の別名桜川を村名とした。1955年(昭和30)古渡(ふっと)、浮島(うきしま)の2村が合併して成立した。2005年(平成17)稲敷郡江戸崎町(えどさきまち)、新利根町(しんとねまち)、東町(あずままち)と合併して市制施行、稲敷市となった。旧村域は霞ヶ浦(かすみがうら)に臨む沿岸低地と稲敷台地よりなり気候は温暖。国道51号、125号が通じる。新利根川の河口である霞ヶ浦の入り江に稲敷大橋(1986年完成)が架かる。北畠親房(きたばたけちかふさ)が1338年(延元3・暦応1)に上陸した所で県史跡の神宮寺城跡など旧跡が多い。霞ヶ浦水運の要地で小野(おの)川河口の古渡は河岸町(かしまち)として栄えた。昭和初期より甘田入(あまだいり)、野田奈川、西の洲(す)の干拓が進み、水田が広がった。農業が主で米と蓮根(れんこん)が多く、浮島のダイコンは特産。阿波(あば)の大杉神社は海上安全と疫病(疱瘡(ほうそう))除(よ)けの神として信仰され、「あんば囃子(ばやし)」は国の選択無形民俗文化財。国史跡の広畑貝塚、民俗資料館もある。
[櫻井明俊]
能の曲目。四番目物。狂女能。五流現行曲。世阿弥(ぜあみ)作。桜子(さくらご)(子方。ただし後の場面に登場)は母の貧窮を見かねて人商人(ひとあきんど)に身を売る。人商人(ワキツレ)がその代金と手紙を母(前シテ)に届け、母が嘆きつつ後を追う前段。後段は常陸(ひたち)国(茨城県)、桜川のほとりで僧たち(ワキ、ワキツレ)の花見の場面。狂女となり、日向(ひゅうが)国(宮崎県)からはるばるわが子を尋ねてきた母(後シテ)。名前にゆかりある桜川で、掬(すく)い網を持ち、風に散り流れる落花をすくう場面に詩情のあふれる、物狂い能の代表作。親子再会で締めくくるのは、この種の能の常套(じょうとう)手段である。
[増田正造]
茨城県南西部、筑波(つくば)山地西麓(せいろく)を流れる川。桜川市山口の鍬柄峠(くわがらとうげ)下にある鏡ヶ池(かがみがいけ)を源とし、つくば市などを経て土浦(つちうら)市で霞ヶ浦(かすみがうら)に注ぐ。延長63.4キロメートル、流域面積345平方キロメートル。桜川は歌枕として知られ、上流の桜川市磯部(いそべ)付近は謡曲『桜川』の舞台。磯部稲村神社(いそべいなむらじんじゃ)参道一帯のサクラ(東北系のシロヤマザクラが多い)は国指定名勝・天然記念物。中流のつくば市北部から沖積地の水田が開け、下流の土浦市街地では両岸もサクラが春の名所。
[櫻井明俊]
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…北部の山地では花コウ岩の採石が行われ,石材加工や粘土瓦の製造が盛んである。磯部付近の桜川は桜の名所で,謡曲《桜川》の舞台として知られ,名勝に指定されている。735年(天平7)行基の開山と伝える富谷観音(小山寺)の三重塔(重要文化財)は1465年(寛正6)の建造である。…
…人口13万2243(1995)。霞ヶ浦の土浦入に臨む桜川の沖積低地と周辺の台地を占める。中世には今泉氏,菅谷氏らが居城した地で,近世に入って土浦藩が置かれ,城下は中城・東崎両町に分けられた。…
…寛永年間(1624‐44)に通船のため京橋川から隅田川に通じる堀が開かれ,長さが8丁あったので八丁堀と名づけられたという。明治以後,堀は桜川と改称されたが,昭和40年代に一部を残して埋め立てられた。八丁堀には,元禄年間(1688‐1704)以降江戸町奉行所の与力・同心約300人の組屋敷があり,与力は〈八丁堀の旦那〉とよばれ,300坪前後の土地を拝領していた。…
※「桜川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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