浜松庄(読み)はままつのしよう

日本歴史地名大系 「浜松庄」の解説

浜松庄
はままつのしよう

浜松市中央部から浜名郡新居あらい町にかけての地域に及んだとみられる。皇室領庄園。古代の敷智郡浜松郷(和名抄)を引継ぐものと考えられる。「吾妻鏡」養和元年(一一八一)閏二月一七日条に、遠江守護安田義定らが「浜松庄橋本辺」で平氏軍勢を待つ記述がみえ、立庄は平安後期とみられるが不詳。文永一一年(一二七四)六月七日の持明院某御教書写(加茂神社古文書)によれば、賀茂新宮神主片岡師朝が当庄内岡部おかべ郷の相伝を認められている。「勘仲記」弘安六年(一二八三)一〇月九日条によると、室町院(暉子内親王)安嘉門院(邦子内親王)の三十五日忌曼荼羅供に際し「被召用途御領」としての「浜松庄十五貫」などに賦課しており、室町院領であった。正安二年(一三〇〇)に室町院が没すると岡部郷などは亀山法皇・大覚寺統に伝えられた(同四年一一月二四日「後伏見上皇院宣」座田文書)。法皇は嘉元三年(一三〇五)九月一五日に没するが、亀山法皇仏事用途注文写(公衡公記別記)によれば、その約二ヵ月前の七月二六日に仏事料として諸庄への用途負担を課し、そのうちに「浜松庄五千疋」がみえる。また同日、西園寺公衡に「年来芳志難謝之故」に当庄領家職を譲っている(「亀山法皇譲状写」亀山院凶事記)。翌年六月一二日の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)には「浜松庄前左大臣遠繁」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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