岡部郷(読み)おかべごう

日本歴史地名大系 「岡部郷」の解説

岡部郷
おかべごう

現浜松市街地の南西部、近世初頭に伊場岡部いばおかべ村などと称された近世の伊場村付近に比定される。浜松庄のうち。文永八年(一二七一)五月二四日の某御教書写(加茂神社古文書)に「社領遠江国岡部郷」とみえ、賀茂新宮(京都上賀茂社の摂社片山御子神社か)神主片岡師朝が某氏から父師重および筑前局の譲状に任せて岡部郷を社領として安堵されており、これ以前から神主片岡氏の知行するところであった。ところが同一一年六月七日、新宮領の浜松庄内岡部郷は、道久が八〇歳になり、しかも筑前局の代官として長年月経ているので、道久の生存中は道久の知行所とし、道久の死後師朝が相続するようにと命じられた(「持明院某御教書写」加茂神社古文書)。正応二年(一二八九)一二月二五日には室町院(暉子内親王)が賀茂権禰宜を新宮神主職に補任し、当郷を安堵している(「室町院令旨」尊経閣古文書纂所収賀茂社文書)


岡部郷
おかべごう

現在の岡部付近に所在した中世の郷。建長元年(一二四九)七月二三日の関東下知状(尊経閣古文書纂)に「岡部権守自領知岡部・宇都谷両郷」とある。当郷は入江氏族岡部氏の名字の地で、「尊卑分脈」によれば、入江馬允維清の孫(船越維綱の子)に岡部権守清綱がおり、清綱に続く泰綱・忠綱・時綱の三代が「吾妻鏡」にみえる。その後も戦国期に至るまで岡部氏が当郷を領したと思われるが、詳細は不明。平安後期に郷内に岡部宿ができ、鎌倉時代から戦国期にかけての紀行等に出る岡部の地名はほとんどこの宿駅をさす。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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