鎌倉末期の公卿。太政大臣実兼の男。母は内大臣中院通成の女。官位は従一位左大臣に至る。また早くより関東申次(もうしつぎ)の父実兼を助け,実兼出家後はその職を継ぎ,公武間の交渉に当たった。1290年(正応3)浅原為頼が禁中を犯した事件のとき,これを亀山法皇の陰謀に発するものとし,法皇を六波羅に移し,承久の例にならって沙汰すべしと論じたのは有名である。1311年(応長1)出家,法名静勝。以後入道左大臣と呼ばれたが,15年51歳で没した。法号竹林院。日記を《公衡公記》《竹林院記》《竹林院入道左大臣記》ともいい1283年(弘安6),88,89年(正応1,2),1314,15年(正和3,4)各年のものが西園寺家に伝来し,また昭訓門院,広義門院の御産や,後深草,亀山両上皇の没時に関する別記が伏見宮家に伝えられたが,現在これらはすべて宮内庁書陵部架蔵である。なお御物《春日権現験記》は,公衡が春日社に奉納したものである。
執筆者:今江 広道
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鎌倉後期の公卿(くぎょう)。父は太政大臣実兼。母は内大臣中院通成の女(むすめ)顕子。竹林院入道左大臣と称される。侍従・左中将を経て、1276年(建治2)に従三位となり、1283年(弘安6)権中納言(ごんのちゅうなごん)、1288年(正応1)権大納言、1298年(永仁6)内大臣、1299年(正安1)右大臣。同年父実兼の跡を受けて関東申次(もうしつぎ)となる。1309年(延慶2)に左大臣に昇進したが、同年中に官を辞し、11年(応長1)に出家した(法名静勝)。両統迭立(てつりつ)期においては、大覚寺統に近い立場にありながら、亀山院・後宇多院の不興を買う事態を招く行動をとったために持明院統に接近する時期もあり、その政治的地位はやや不安定であった。彼の日記『公衡公記』(宮内庁書陵部所蔵)は、鎌倉時代後期の公武交渉の状況を伝える貴重な史料である。また、『春日権現験記絵巻』を制作し春日社に寄進したことで知られる。1315年(正和4)9月25日没。
[上杉和彦]
『竜粛著『鎌倉時代 下』(1957・春秋社)』▽『森茂暁著『鎌倉時代の朝幕関係』(1991・思文閣出版)』
(森茂暁)
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…御物。付属の目録奥書によって,1309年(延慶2)に西園寺公衡(きんひら)が春日明神の加護による藤原氏一門の繁栄を祈願するため春日大社に奉納したこと,絵は宮廷の絵所預(えどころあずかり)高階隆兼(たかしなたかかね)が描き,詞書を公衡の弟,覚円法印が起草して前関白鷹司基忠とその子息3人が書き写したことが知られる。絵巻としては珍しく絹本を用い,保存もきわめて良く,鎌倉後期の社寺縁起絵巻の代表作といえる。…
…宮内庁書陵部所蔵。西園寺公衡,公名,実遠,公藤らの日記(1283‐1523)の自筆原本を中心とし,ほかに御幸・改元等の部類記,叙位・賭射等の公事次第,および同家の家譜等を含む。各日記は当時の根本史料として重要である。…
※「西園寺公衡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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