西園寺公衡(読み)さいおんじきんひら

精選版 日本国語大辞典 「西園寺公衡」の意味・読み・例文・類語

さいおんじ‐きんひら【西園寺公衡】

  1. 鎌倉末期の公卿西園寺公経の玄孫。号は竹林院左府。延慶二年(一三〇九左大臣となる。その日記を「公衡日記」または「竹林院左府記」という。文永元~正和四年(一二六四‐一三一五

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改訂新版 世界大百科事典 「西園寺公衡」の意味・わかりやすい解説

西園寺公衡 (さいおんじきんひら)
生没年:1264-1315(文永1-正和4)

鎌倉末期の公卿。太政大臣実兼の男。母は内大臣中院通成の女。官位は従一位左大臣に至る。また早くより関東申次(もうしつぎ)の父実兼を助け,実兼出家後はその職を継ぎ,公武間の交渉に当たった。1290年(正応3)浅原為頼が禁中を犯した事件のとき,これを亀山法皇陰謀に発するものとし,法皇を六波羅に移し,承久の例にならって沙汰すべしと論じたのは有名である。1311年(応長1)出家,法名静勝。以後入道左大臣と呼ばれたが,15年51歳で没した。法号竹林院。日記を《公衡公記》《竹林院記》《竹林院入道左大臣記》ともいい1283年(弘安6),88,89年(正応1,2),1314,15年(正和3,4)各年のものが西園寺家に伝来し,また昭訓門院広義門院御産や,後深草,亀山両上皇の没時に関する別記が伏見宮家に伝えられたが,現在これらはすべて宮内庁書陵部架蔵である。なお御物《春日権現験記》は,公衡が春日社に奉納したものである。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「西園寺公衡」の意味・わかりやすい解説

西園寺公衡
さいおんじきんひら
(1264―1315)

鎌倉後期の公卿(くぎょう)。父は太政大臣実兼。母は内大臣中院通成の女(むすめ)顕子。竹林院入道左大臣と称される。侍従・左中将を経て、1276年(建治2)に従三位となり、1283年(弘安6)権中納言(ごんのちゅうなごん)、1288年(正応1)権大納言、1298年(永仁6)内大臣、1299年(正安1)右大臣。同年父実兼の跡を受けて関東申次(もうしつぎ)となる。1309年(延慶2)に左大臣に昇進したが、同年中に官を辞し、11年(応長1)に出家した(法名静勝)。両統迭立(てつりつ)期においては、大覚寺統に近い立場にありながら、亀山院・後宇多院の不興を買う事態を招く行動をとったために持明院統に接近する時期もあり、その政治的地位はやや不安定であった。彼の日記『公衡公記』(宮内庁書陵部所蔵)は、鎌倉時代後期の公武交渉の状況を伝える貴重な史料である。また、『春日権現験記絵巻』を制作し春日社に寄進したことで知られる。1315年(正和4)9月25日没。

[上杉和彦]

『竜粛著『鎌倉時代 下』(1957・春秋社)』『森茂暁著『鎌倉時代の朝幕関係』(1991・思文閣出版)』

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朝日日本歴史人物事典 「西園寺公衡」の解説

西園寺公衡

没年:正和4.9.25(1315.10.23)
生年:文永1(1264)
鎌倉時代後期の公家。太政大臣西園寺実兼の嫡子。母は内大臣中院通成の娘顕子。竹林院左府と号し法名は静勝。建治2(1276)年従三位。官位累進し延慶2(1309)年従一位左大臣に至ったが,同年中に辞し,応長1(1311)年8月出家。父実兼が正安1(1299)年6月に出家したのちの嘉元2(1304)年夏,鎌倉幕府の要請を受けて関東申次に就任,正和4(1315)年9月に父に先だって没するまでの11年間,このポストにあって,朝廷と幕府の間の連絡・交渉をつかさどった。公衡は持明院統に近く,また公衡の妹瑛子(昭訓門院)が生んだ亀山法皇の皇子恒明を扶持したため,大覚寺統の後宇多上皇と折り合いが悪く,後宇多の勅勘にあったりした。父祖の例に違い,公衡が太政大臣に到達しなかったのは,家運衰退のきざしとみられる。公衡は日記を残しており,『公衡公記』として刊行されている。<参考文献>森茂暁『鎌倉時代の朝幕関係』

(森茂暁)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「西園寺公衡」の解説

西園寺公衡 さいおんじ-きんひら

1264-1315 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
文永元年生まれ。西園寺実兼(さねかね)の長男。母は源顕子(けんし)。正応(しょうおう)3年浅原為頼父子の宮中乱入事件を亀山上皇の陰謀と非難,のち上皇側につくなど,持明院統(後深草天皇方)と大覚寺統(亀山天皇方)の皇位継承をめぐる対立に介入した。正安(しょうあん)元年関東申次(もうしつぎ)となり,延慶(えんきょう)2年左大臣。従一位。正和(しょうわ)4年9月25日死去。52歳。日記に「亀山院御凶事記」「公衡公記」など。

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百科事典マイペディア 「西園寺公衡」の意味・わかりやすい解説

西園寺公衡【さいおんじきんひら】

鎌倉末期の公卿(くぎょう)。太政(だいじょう)大臣実兼の男で,母は内大臣中院通成(なかのいんみちなり)の女。1309年従一位左大臣となる。また関東申次(かんとうもうしつぎ)を務めた父実兼を助け,実兼出家後は同職を継いで公武間の交渉にあたった。1311年に出家し,法名は静勝(せいしょう)。以後入道左大臣と呼ばれた。日記《公衡公記》がある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西園寺公衡」の意味・わかりやすい解説

西園寺公衡
さいおんじきんひら

[生]文永1(1264).京都
[没]正和4(1315).9.25. 京都
鎌倉時代後期の廷臣。実兼の子。延慶2 (1309) 年左大臣。日記に弘安6 (1283) 年より正和4 (1315) 年にいたる自筆および写本の『公衡公記』 (→管見記 ) がある。

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世界大百科事典(旧版)内の西園寺公衡の言及

【春日権現験記】より

…御物。付属の目録奥書によって,1309年(延慶2)に西園寺公衡(きんひら)が春日明神の加護による藤原氏一門の繁栄を祈願するため春日大社に奉納したこと,絵は宮廷の絵所預(えどころあずかり)高階隆兼(たかしなたかかね)が描き,詞書を公衡の弟,覚円法印が起草して前関白鷹司基忠とその子息3人が書き写したことが知られる。絵巻としては珍しく絹本を用い,保存もきわめて良く,鎌倉後期の社寺縁起絵巻の代表作といえる。…

【管見記】より

…宮内庁書陵部所蔵。西園寺公衡,公名,実遠,公藤らの日記(1283‐1523)の自筆原本を中心とし,ほかに御幸・改元等の部類記,叙位・賭射等の公事次第,および同家の家譜等を含む。各日記は当時の根本史料として重要である。…

※「西園寺公衡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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