ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「今川氏真」の意味・わかりやすい解説
今川氏真
いまがわうじざね
[没]慶長19(1614).12.28. 江戸
駿河の戦国大名。義元 (→今川義元 ) の子。通称五郎。号は宗ぎん (そうぎん) 。天文 23 (1554) 年,今川義元,武田信玄,北条氏康の間で同盟成り,氏康の娘が氏真の妻となった。永禄3 (60) 年5月,義元が桶狭間の戦いで敗死した跡を継ぎ,駿河,遠江,三河を領有した。同5年,上総介。暗愚であったため,同家に寄食していた信玄の父信虎は,氏真の家臣瀬名,葛山,朝比奈らとともに,氏真を退けようとしたが,かえって駿河から追放された。氏真は同7年,徳川家康と戦って,三河を失った。同 10年,信玄は父信虎からすすめられて兵を駿河由比に出した。氏真は部将鹿原安房守に命じて,薩 埵峠 (さったとうげ) にこれを防いだが利なく,家臣が信玄に内応したため,続いて氏真の全軍も破られ,まもなく府中も落されて,遠江掛川城に逃れ,朝比奈泰能を頼った。信玄の駿河侵入とほぼ時を同じくして,徳川家康は遠江攻略に着手し,同 12年正月,氏真の掛川城を包囲した。5月に徳川,北条の和が成り,氏真は掛川から北条支配下の伊豆戸倉に移された。のち氏真は北条氏政と不和になり,逃れて家康を頼った。天正 10 (82) 年3月,駿府は武田氏を滅ぼした信長の手によって家康に加封された。氏真は蹴鞠をよくし,のち京都へおもむき豊臣秀吉に扶持され,のち出家したが,次いで家康に仕え,子孫は江戸幕府の高家となって,品川氏を称した。法号は仙巌院豊山宗ぎん。
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