浦上庄(読み)うらかみのしよう

日本歴史地名大系 「浦上庄」の解説

浦上庄
うらかみのしよう

和名抄」に記載される揖保郡浦上郷の郷名を継承したとみられる庄園。庄域は揖保川下流域の現龍野市南部の揖保町地区から揖保郡御津みつ町東部域にかけての地域と推定される。仁安二年(一一六七)閏七月日の賀茂別雷社神主等解(兵範記仁安三年三月巻裏文書)に浦上庄とみえ、京都上賀茂社(賀茂別雷社)領のむろ御厨塩屋しおや御厨(現御津町)に隣接していたようで、上賀茂社領の簗場に当庄の庄官らが侵入して非法を行い相論になっていた。養和元年(一一八一)一二月八日の後白河院庁下文案(新熊野神社文書)に京都新熊野いまくまの社領二八庄の一として浦上庄がみえる。これらの庄園は永暦年中(一一六〇―六一)後白河院が同社を創建した際に領家職が寄進されたが、養和元年一〇月国役が課され神事に支障を来していると訴え、勅事・院事以下の臨時国役などが免除された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報