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鎌倉初期の武将。相模国鎌倉郡梶原の住人。父は景清とも景長ともいう。1180年(治承4)石橋山の戦で平家方ながら源頼朝を救う。翌年頼朝に近仕するようになり侍所所司となる。また83年(寿永2)平広常を謀殺する功を立てた。84年(元暦1)源義経らとともに上洛,木曾義仲を討ち,さらに西海へ平氏を追討して活躍。同年土肥実平とともに山陽道5ヵ国の軍政官に就き,以後播磨,美作の守護となる端緒をつかんだ。和田義盛より侍所別当の座を奪い,頼朝の意を体し御家人の非違を厳しく糾弾して将軍権力の重要な手足となった。頼朝への最大の忠誠者であり,また寵臣であったといえる。しかしそのため多くの御家人の恨みを集め,頼朝の死後99年(正治1)御家人66名の弾劾をうけて失脚した。翌年1月武田有義を将軍に擁立しようと上洛の途についたが,駿河国清見関で幕府方に襲われ狐崎で戦死した。
執筆者:青山 幹哉 頼朝に讒言(ざんげん)をして義経を失脚させた景時については《平家物語》巻十一〈腰越〉にくわしい。その直接の原因となったのは,同巻の〈逆櫓〉や〈壇浦合戦〉における両者の激しい対立があげられる。景時には老獪な悪意のようなものが感じとれるが,政治家としてよりも武人として,あくまで正攻法で,独断専行する義経をたしなめ,一軍の将としては慎重な進退こそ必要であると説くことばに説得力がある。同じ《平家物語》巻九〈二度懸〉には,次男平次景高に向かって先駆けを戒めながらも,共に敵陣に駆け入り,嫡子景季の身を案じては,みずからの危険を省みず,2度も敵中深く入ってこれを救出するなど,子を思う父の情愛が強く表現されている。近世の浄瑠璃《三浦大助紅梅靮(みうらのおおすけこうばいたづな)》(長谷川千四,文耕堂合作)は頼朝再挙のとき,忠節を尽くした三浦大助義明,畠山重忠,梶原景時を描いているが,なかでも梶原が名刀の切れ味をためす三段目切の〈石切梶原〉はとくに名高い。
執筆者:岩崎 武夫
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鎌倉初期の武将。通称は平三(へいぞう)。相模(さがみ)国(神奈川県)の豪族鎌倉氏の流。父は景清(かげきよ)(一説に景長(かげなが))、母は横山党小野孝兼(たかかね)の女(むすめ)。1180年(治承4)8月、石橋山(いしばしやま)の戦いでは平氏方の大庭景親(おおばかげちか)の手に属して参戦したが、源頼朝(よりとも)に内応しその危機を救った。また「文筆に携わらずと雖(いえど)も言語を巧みにするの士也(なり)」(『吾妻鏡(あづまかがみ)』)と評され、服属後は頼朝の信任を得、鎌倉殿(どの)(頼朝)側近の武将として活躍した。82年(寿永1)頼家(よりいえ)誕生の儀を奉行(ぶぎょう)、翌年には頼朝の密命により上総介広常(かずさのすけひろつね)を殺害、さらに平氏追討戦では軍奉行(いくさぶぎょう)として西上、この間、「逆櫓(さかろ)」の献策をめぐって源義経(よしつね)と対立を生じたといい、ついには彼を失脚に追い込んだ。84年(元暦1)播磨(はりま)、美作(みまさか)の守護に任じられ、西国にも勢力を築く一方、侍所所司(さむらいどころしょし)、厩別当(うまやべっとう)など幕府の要職につき、のちには和田義盛(よしもり)より侍所別当の職を奪い、御家人(ごけにん)統制の中心として敏腕を振るった。景時の立場は「鎌倉ノ本体ノ武士」(『愚管抄(ぐかんしょう)』)と称揚されたが、北条氏をはじめ有力御家人(ごけにん)の反感も強く、頼朝死後の99年(正治1)10月20日、ついに失脚して鎌倉を退去、翌年正月、源氏将軍の同族武田有義(ありよし)を擁立して幕府に対抗しようと西上の途中、駿河(するが)国清見関(きよみがせき)(静岡市)で阻止され、付近の狐崎(きつねがさき)に一族もろとも戦死した。
[杉橋隆夫]
『安田元久著『鎌倉幕府 その政権を担った人々』(1971・新人物往来社)』
(三田武繁)
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?~1200.1.20
鎌倉初期の武将。相模国鎌倉郡梶原郷(現,神奈川県鎌倉市)が本領。父は鎌倉景清(一説に景長)。通称平三。石橋山の戦で源頼朝の危機を救ったことや,弁舌に巧みだったことから頼朝に重用され,侍所所司として御家人の統制にあたる。1183年(寿永2)頼朝の命で上総介広常を殺害。平家追討にも従軍するが,屋島攻撃の際に源義経と作戦上の問題で対立,義経失脚の一因をつくる。84年(元暦元)には播磨・美作両国の総追捕使(そうついぶし)に任じられるが,頼朝の死後,結城朝光を源頼家に讒言(ざんげん)したことから有力御家人層の弾劾をうけて失脚。1200年(正治2)1月,謀反を企て上洛をはかるが,駿河国清見関(きよみがせき)付近(現,静岡市清水区)で在地武士の攻撃をうけ敗死。
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…勝報に接した鎌倉の頼朝は,範頼には九州にとどまって平氏旧領の処分に当たり,義経には神器,捕虜を伴って上洛するよう命じた。こののち頼朝・義経兄弟の不和は決定的となるが,《平家物語》は,壇ノ浦決戦の先陣を梶原景時と義経が争って同士討ち寸前に及び,それを遺恨に思った景時が頼朝に讒言したのが原因だと説明している。【杉橋 隆夫】。…
…平安時代では藤原氏の所領の有年荘,美福門院領の矢野荘,東大寺領の大部(おおべ)荘などが著名である。【直木 孝次郎】
【中世】
[鎌倉時代]
播磨は1184年(元暦1)源義経が三草山(みくさやま)の戦で平資盛を敗走させてから源氏の支配下に入り,源頼朝は梶原景時を下して播磨その他を守護させた。文治(1185‐90)ころいまの姫路付近に留守所があり,小目代が国務をとっていた。…
… 頼家は幼少より才気煥発で独断専行が多く,そのため北条氏や他の御家人の信任を得られなかったといわれる。頼家の周りには比企一族のほか梶原景時をはじめ頼家お気に入りの近習がおり,使者,手兵,遊び仲間としての役目を果たしていた。景時が追放,討滅されたのも,彼が頼家に最も近い側近で,後見でもあったためといわれる。…
※「梶原景時」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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