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梶原景時 かじわらかげとき

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

梶原景時
かじわらかげとき

[生]?
[没]正治2(1200).1.20. 駿河,狐崎
鎌倉時代初期の相模国の武将。治承4 (1180) 年石橋山の戦いに平氏方として大庭景親に従い出陣したが,敗れて逃れる源頼朝を救い,以後頼朝に仕えた。頼朝と義経との不和が決定的となったのは,景時の中傷によってであるが,この種の行為がのち彼自身の命とりとなる。

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デジタル大辞泉の解説

かじわら‐かげとき〔かぢはら‐〕【梶原景時】

[?~1200]鎌倉前期の武将。通称、平三。石橋山の合戦源頼朝を救い、のち、侍所(さむらいどころ)所司となった。頼朝死後、幕府に背いて討伐を受け、一族とともに戦死。

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百科事典マイペディアの解説

梶原景時【かじわらかげとき】

鎌倉初期の武将。景清あるいは景長の子という。石橋山の戦では平氏に属したが源頼朝の危機を救った。知略ある一の郎等として頼朝の信任を得,要職を歴任。平氏追討に加わったが,源義経後白河法皇と通じるに至りこれを失脚させた。
→関連項目雀部荘侍所

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

梶原景時 かじわら-かげとき

?-1200 平安後期-鎌倉時代の武将。
石橋山の戦いで平氏側に属しながら源頼朝の危急をすくい,頼朝の信任をえる。源義仲や平氏の追討にくわわり,平氏滅亡後,源義経を讒訴(ざんそ)して失脚させた。侍所所司,厩(うまやの)別当などを歴任。正治(しょうじ)元年結城朝光(ゆうき-ともみつ)を讒言して御家人の弾劾(だんがい)にあい失脚。謀反をくわだて,正治2年1月20日駿河(するが)(静岡県)で一族とともに敗死した。相模(さがみ)(神奈川県)出身。通称は平三。

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朝日日本歴史人物事典の解説

梶原景時

没年:正治2.1.20(1200.2.6)
生年:生年不詳
平安末・鎌倉前期の武将。相模国鎌倉郡梶原郷(鎌倉市)が本領。桓武平氏鎌倉景清の子。一説には景長の子。治承4(1180)年の石橋山の戦で大庭景親に属しながらも源頼朝の危機を救い,再起した頼朝に臣従。寿永2(1183)年には頼朝の命を受け上総広常を誅殺した。その後,源義仲や平家を追討するため西国を転戦するが,元暦1(1184)年には播磨・美作両国の惣追捕使に任ぜられて占領地の軍政に当たった。翌年の屋島の戦の際,源義経と作戦上の問題で対立,平家滅亡後,義経を頼朝に讒訴し失脚に至らせた。弁舌に巧みで京都的な教養にも富んだ景時は,頼朝から信任され,侍所所司として御家人統制に当たったが,その厳しさから御家人たちの反感を買った。また権勢欲も強く,和田義盛から侍所別当の職を借りたまま返さなかったという。正治1(1199)年,頼朝の死後組織された宿老会議のメンバーとなったが,同年,結城朝光を源頼家に讒言したことから,有力御家人66名の弾劾を受け失脚,鎌倉から追放された。その後,甲斐の武田有義を擁して謀反を企てるが,2年1月上洛の途中,駿河国(静岡県)清見関付近で在地の武士に襲撃され,一族と共に敗死した。有能な補佐役を失った頼家は,その3年後,将軍の地位を追われている。<参考文献>安田元久『鎌倉幕府―その政権を担った人々―』

(三田武繁)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

かじわらかげとき【梶原景時】

?‐1200(正治2)
鎌倉初期の武将。相模国鎌倉郡梶原の住人。父は景清とも景長ともいう。1180年(治承4)石橋山の戦で平家方ながら源頼朝を救う。翌年頼朝に近仕するようになり侍所所司となる。また83年(寿永2)平広常を謀殺する功を立てた。84年(元暦1)源義経らとともに上洛,木曾義仲を討ち,さらに西海へ平氏を追討して活躍。同年土肥実平とともに山陽道5ヵ国の軍政官に就き,以後播磨,美作の守護となる端緒をつかんだ。和田義盛より侍所別当の座を奪い,頼朝の意を体し御家人の非違を厳しく糾弾して将軍権力の重要な手足となった。

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大辞林 第三版の解説

かじわらかげとき【梶原景時】

?~1200) 鎌倉初期の武将。通称平三。石橋山の戦いで源頼朝を救って重用された。弁舌に巧みで、源義経を讒ざんして失脚させ、のち頼家に結城朝光を讒したが、三浦義村らの弾劾を受けて鎌倉を追放、狐崎で子の景季とともに戦死。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

梶原景時
かじわらかげとき
(?―1200)

鎌倉初期の武将。通称は平三(へいぞう)。相模(さがみ)国(神奈川県)の豪族鎌倉氏の流。父は景清(かげきよ)(一説に景長(かげなが))、母は横山党小野孝兼(たかかね)の女(むすめ)。1180年(治承4)8月、石橋山(いしばしやま)の戦いでは平氏方の大庭景親(おおばかげちか)の手に属して参戦したが、源頼朝(よりとも)に内応しその危機を救った。また「文筆に携わらずと雖(いえど)も言語を巧みにするの士也(なり)」(『吾妻鏡(あづまかがみ)』)と評され、服属後は頼朝の信任を得、鎌倉殿(どの)(頼朝)側近の武将として活躍した。82年(寿永1)頼家(よりいえ)誕生の儀を奉行(ぶぎょう)、翌年には頼朝の密命により上総介広常(かずさのすけひろつね)を殺害、さらに平氏追討戦では軍奉行(いくさぶぎょう)として西上、この間、「逆櫓(さかろ)」の献策をめぐって源義経(よしつね)と対立を生じたといい、ついには彼を失脚に追い込んだ。84年(元暦1)播磨(はりま)、美作(みまさか)の守護に任じられ、西国にも勢力を築く一方、侍所所司(さむらいどころしょし)、厩別当(うまやべっとう)など幕府の要職につき、のちには和田義盛(よしもり)より侍所別当の職を奪い、御家人(ごけにん)統制の中心として敏腕を振るった。景時の立場は「鎌倉ノ本体ノ武士」(『愚管抄(ぐかんしょう)』)と称揚されたが、北条氏をはじめ有力御家人(ごけにん)の反感も強く、頼朝死後の99年(正治1)10月20日、ついに失脚して鎌倉を退去、翌年正月、源氏将軍の同族武田有義(ありよし)を擁立して幕府に対抗しようと西上の途中、駿河(するが)国清見関(きよみがせき)(静岡市)で阻止され、付近の狐崎(きつねがさき)に一族もろとも戦死した。[杉橋隆夫]
『安田元久著『鎌倉幕府 その政権を担った人々』(1971・新人物往来社)』

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世界大百科事典内の梶原景時の言及

【壇ノ浦の戦】より

…勝報に接した鎌倉の頼朝は,範頼には九州にとどまって平氏旧領の処分に当たり,義経には神器,捕虜を伴って上洛するよう命じた。こののち頼朝・義経兄弟の不和は決定的となるが,《平家物語》は,壇ノ浦決戦の先陣を梶原景時と義経が争って同士討ち寸前に及び,それを遺恨に思った景時が頼朝に讒言したのが原因だと説明している。【杉橋 隆夫】。…

【播磨国】より

…平安時代では藤原氏の所領の有年荘,美福門院領の矢野荘,東大寺領の大部(おおべ)荘などが著名である。【直木 孝次郎】
【中世】

[鎌倉時代]
 播磨は1184年(元暦1)源義経が三草山(みくさやま)の戦で平資盛を敗走させてから源氏の支配下に入り,源頼朝は梶原景時を下して播磨その他を守護させた。文治(1185‐90)ころいまの姫路付近に留守所があり,小目代が国務をとっていた。…

【源頼家】より

… 頼家は幼少より才気煥発で独断専行が多く,そのため北条氏や他の御家人の信任を得られなかったといわれる。頼家の周りには比企一族のほか梶原景時をはじめ頼家お気に入りの近習がおり,使者,手兵,遊び仲間としての役目を果たしていた。景時が追放,討滅されたのも,彼が頼家に最も近い側近で,後見でもあったためといわれる。…

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