日本歴史地名大系 「揖保郡」の解説 揖保郡いぼぐん 面積:一六三・八〇平方キロ(境界未定)太子(たいし)町・新宮(しんぐう)町・揖保川(いぼがわ)町・御津(みつ)町古代には播磨国南西部に位置し、東は飾磨(しかま)郡、北は宍粟郡・佐用郡、西は赤穂郡に囲まれ、南は瀬戸内海に面していた。立地環境をみると、北部は西播山地の東端にあたり、南部は揖保川中流とその支流の栗栖(くりす)川の谷底平野と揖保川・林田(はやしだ)川下流の氾濫原が展開し、条里遺構が顕著に残存する。揖保川・林田川流域では段丘地形の発達がみられず、孤立した小山地や丘陵が低地の中に島状に点在する。家(いえ)島も沈水を免れた山頂部であるとされる。海岸部は揖保川より西が岡山県域に至る沈水海岸である。郡名は奈良県明日香(あすか)村飛鳥池(あすかいけ)遺跡出土の七世紀末とされる木簡に「粒評石見□(里カ)」とあるのが早い例で、「播磨国風土記」に揖保郡揖保里とあるのがこれに次ぎ、その地名は粒丘(いいぼのおか)に由来するという。揖穂郡(日本往生極楽記)・揖宝郡(「扶桑略記」神亀四年三月三〇日条)・伊保(「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」国立歴史民俗博物館蔵)などとも記された。「和名抄」東急本は「伊比奉」と訓じ、享保八年(一七二三)板本の「延喜式」神名帳にもイヒホと訓が付される。平安時代後期には揖東(いつとう)郡・揖西(いつさい)郡に分割され、以後中世から近世を通じて揖東・揖西の両郡に分れていた(→揖東郡 →揖西郡)。明治二九年(一八九六)揖東・揖西両郡が合併し、再び揖保郡となった。その後順次姫路市・龍野市に編入され、現在は新宮・太子・揖保川・御津の四町となった。この四町は姫路・龍野両市によって三ブロックに分けられ、北の新宮町は北は宍粟郡山崎(やまさき)町・佐用郡三日月(みかづき)町、西は赤穂郡上郡(かみごおり)町、南は相生市・龍野市、東は姫路市。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by