浦上村宗(読み)うらがみ・むらむね

朝日日本歴史人物事典 「浦上村宗」の解説

浦上村宗

没年享禄4.6.4(1531.7.17)
生年:生年不詳
戦国時代武将,播磨国(兵庫県)守護代。則景(則宗の子)の猶子。大永1(1521)年7月,室町幕府管領細川高国から,播磨守護赤松義村の許にあった故足利義澄の子義晴の擁立を諮られ,義村を欺いて義晴を奉じ,高国の所へ上洛した。次いで同年8月,義村を播磨国室津に幽閉して,自殺させた。翌2年9月,浦上村国が義村の子政村を奉じて播磨に入国したためこれと合戦。しかし同年11月,この内紛に乗じて但馬守護山名誠豊が播磨に入国すると,村国と和を講じて誠豊を破った。享禄3(1530)年6月,高国に反して畿内各所で合戦を続けていた柳本賢治を播磨国東条に殺害。7月には,別所就治の属城小寺,三木,有田の諸城を攻めてこれを破った。8月,細川晴元の部将高畠甚九郎が伊丹城に,池田久宗が池田城に,薬師寺国盛が富松城に拠ると,高国の求めに応じて摂津国神呪寺に陣取った。9月には高国と共に富松城を落とし,国盛は摂津大物城に移った。翌4年,摂津国中島に陣した高国・村宗勢は晴元・三好元長勢と合戦,敗れて天王寺に退く。天王寺から尼崎に敗走したが,高国は捕らえられて自害,村宗は戦死した。

(森田恭二)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「浦上村宗」の意味・わかりやすい解説

浦上村宗
うらがみむらむね
(?―1531)

戦国初期の守護赤松氏領国の守護代。浦上則宗(のりむね)の嗣子(しし)。将軍の継嗣問題に関する中央の政治抗争にかかわり、1520年(永正17)守護赤松義村(よしむら)に迫り家督を政村に譲らせ、ついで翌年義村を幽閉中の播磨(はりま)(兵庫県)室津(むろつ)に殺害し、播磨、備前(びぜん)(岡山県)、美作(みまさか)(岡山県)に支配権を確立する。また、将軍義稙(よしたね)を追い義晴(よしはる)を迎えようとした細川高国(たかくに)を助け、細川晴元(はるもと)、三好元長(みよしもとなが)らと戦ったが、享禄(きょうろく)4年摂津に戦死。その子宗景(むねかげ)は備前天神山(てんじんやま)城に拠(よ)り、その後なお勢力を保ったが、77年(天正5)家臣宇喜多直家(うきたなおいえ)に滅ぼされた。

[岸田裕之]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「浦上村宗」の解説

浦上村宗 うらがみ-むらむね

?-1531 戦国時代の武将。
浦上則宗の孫。赤松氏の臣で,播磨(はりま)守護代。大永(たいえい)元年主君の赤松義村を殺害し,備前,播磨,美作(みまさか)を支配。細川高国をたすけて細川晴元,三好元長らとたたかい,享禄(きょうろく)4年6月4日摂津天王寺付近で討ち死にした。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の浦上村宗の言及

【浦上氏】より

…室町時代の播磨・備前の豪族。本姓は紀氏と伝え,播磨揖西郡浦上荘を本貫地とする。大徳寺開山宗峰妙超も浦上氏の出自。南北朝時代,赤松氏が播磨・備前・美作の守護として台頭すると,その被官となる。行景,宗隆,助景らが備前守護代を歴任し,本拠も備前東部の和気郡三石城に移った。嘉吉の乱で赤松氏が没落した後,浦上則宗が出て赤松政則を補佐し,赤松氏再興の中心的存在として応仁の乱に活躍,政則を播備作3国守護および侍所所司に復権せしめ,みずからも所司代となり在京して重責を果たした。…

【備前国】より

…1484年(文明16)から88年(長享2)にわたる山名政豊の播磨,備前への侵入は旧領奪回をねらったものであったが,失敗した。 政則の死後赤松氏が衰えると,代わって三石城を本拠とする浦上氏が台頭し,浦上村宗は主君赤松義村を幽閉暗殺して実権を握り,細川高国を擁して上洛し覇権を掌握しようとしたが,義村の子政村(のちの晴政)が三好元長に内応したことにより摂津大物(だいもつ)で敗死した。村宗の子宗景は本拠を三石城から天神山城に移したが,凡庸で家臣宇喜多直家に権力を奪われた。…

※「浦上村宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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