朝日日本歴史人物事典 「浦上村宗」の解説
浦上村宗
生年:生年不詳
戦国時代の武将,播磨国(兵庫県)守護代。則景(則宗の子)の猶子。大永1(1521)年7月,室町幕府管領細川高国から,播磨守護赤松義村の許にあった故足利義澄の子義晴の擁立を諮られ,義村を欺いて義晴を奉じ,高国の所へ上洛した。次いで同年8月,義村を播磨国室津に幽閉して,自殺させた。翌2年9月,浦上村国が義村の子政村を奉じて播磨に入国したためこれと合戦。しかし同年11月,この内紛に乗じて但馬守護山名誠豊が播磨に入国すると,村国と和を講じて誠豊を破った。享禄3(1530)年6月,高国に反して畿内各所で合戦を続けていた柳本賢治を播磨国東条に殺害。7月には,別所就治の属城小寺,三木,有田の諸城を攻めてこれを破った。8月,細川晴元の部将高畠甚九郎が伊丹城に,池田久宗が池田城に,薬師寺国盛が富松城に拠ると,高国の求めに応じて摂津国神呪寺に陣取った。9月には高国と共に富松城を落とし,国盛は摂津大物城に移った。翌4年,摂津国中島に陣した高国・村宗勢は晴元・三好元長勢と合戦,敗れて天王寺に退く。天王寺から尼崎に敗走したが,高国は捕らえられて自害,村宗は戦死した。
(森田恭二)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報