海東庄(読み)かいとうのしよう

日本歴史地名大系 「海東庄」の解説

海東庄
かいとうのしよう

中島なかしま郡・海東かいとう郡内。現甚目寺じもくじ町北部・美和みわ町北部・稲沢市南部に比定される。京都蓮華王れんげおう院領。上中下の三ヵ庄があった。上庄内太山寺たいさんじ郷・松葉まつば郷・新屋にいや郷が、中庄内に七寺ななつでら(現稲沢市七ッ寺町)松野まつの(同市日下部松野町)・森大日堂前(現甚目寺町森)石作いしつくり(同町石作)光明こうみよう(同町甚目寺)がみえ、現稲沢市に中之庄なかのしよう町がある。条里制遺構が顕著な沖積平野上に位置する。

領家職は平頼盛が知行していたが、源頼朝にいったん没収されたあと寿永三年(一一八四)頼盛に返付された。頼盛からその子光盛に、さらに寛喜元年(一二二九)上庄・中庄は四女三条局に、下庄は五女冷泉局に譲られた。上庄・中庄は久我通忠室を経て久我家に相伝され、下庄も久我家領となった可能性が強い。久我通雄没後、正慶元年(一三三二)上庄・中庄を含む頼盛遺領をめぐって長通と弟通定間に争いがあったが、長通に安堵された(久我家文書)

建久八年(一一九七)熱田大宮司一族藤原有範が地頭に補任されたが(尊卑分脈)承久の乱で没収されて小山朝政に与えられ、寛喜二年嫡孫長村に譲与された(小山文書)。鎌倉期を通じて、上庄内太山寺郷を除き小山氏が地頭であったと思われる。建武新政下では、右衛門将監が上庄・中庄の、久我家政所別当宇野仲治が下庄の地頭に補任されている(久我家文書)。康元元年(一二五六)下庄田八町三反についての地頭と領家の相論に対する評定衆二階堂行義の書状がある(同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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