渋沢村(読み)しぶさわむら

日本歴史地名大系 「渋沢村」の解説

渋沢村
しぶさわむら

[現在地名]秦野市渋沢・やなぎ町一―二丁目・若松わかまつ町・萩が丘はぎがおか曲松まがりまつ一―二丁目

むろ川が中ほどを西から東に流れ、北は堀斎藤ほりさいとう村、南は足柄上あしがらかみ栃窪とちくぼ村、同郡高尾たかお(現大井町)、東は平沢ひらさわ村、西は村に接する。北辺を東西に矢倉沢やぐらさわ往還、中ほどを小田原道が南北に通ずる。小田原衆所領役帳には川村跡「六拾貫文 中郡渋沢」とある。永禄四年(一五六一)一一月二二日の北条家朱印状(県史三)には陣夫出方として「壱疋 渋沢」とある。

近世は天正一八年(一五九〇)小田原藩領、慶長一〇年(一六〇五)幕府直轄領、正保二年(一六四五)旗本大久保・土屋・内藤領の三給。寛政四年(一七九二)の御地頭替り控帳(秦野市史二)によると、内藤氏は上組・石打場いしうちば四ッ屋よつや、土屋氏は中組ととうげ、大久保氏は下組を知行した。


渋沢村
しぶさわむら

[現在地名]長坂町渋沢

塚川つかかわ村のうちはら村の西、はと川の浸食谷の西側台地にある。集落は甲州道中原路の西側に沿う。天正一〇年(一五八二)一〇月一二日の徳川家印判状写(久遠寺文書)に「甲州下条分拾貫文・渋沢内屋敷壱間」とみえる渋沢は当地のことと推定され、新恩として波木井四郎左衛門尉に宛行い、諸役免許とするとある。慶長古高帳では高一三七石余、屋代越中領。ほかに妙林みようりん寺領八石余がある。元禄郷帳では甲府家領。宝永元年(一七〇四)甲府藩領、享保九年(一七二四)幕府領となり甲府代官支配。宝暦一二年(一七六二)から清水家領となり(安永九年「下岩下役所宛村方一件内済一札」渋沢区有文書)、寛政七年(一七九五)幕府領市川代官支配、文政四年(一八二一)甲府代官支配となる(「年貢割付状」同文書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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