日本歴史地名大系 「秦野市」の解説 秦野市はだのし 面積:一〇四・一六平方キロ県の中西部に位置し、北辺は標高一二七二・五メートルの鍋割(なべわり)山、一四九〇・九メートルの塔(とう)ノ岳、一二〇九メートルの行者岳(ぎようじやがたけ)などが連なる丹沢(たんざわ)山塊、南は大磯丘陵に囲まれる。北は愛甲(あいこう)郡清川(きよかわ)村、東は標高一二五一・七メートルの大山の峰を経て厚木市・伊勢原市、南東は平塚市、南は足柄上(あしがらかみ)郡中井(なかい)町・大井(おおい)町、西は同郡松田(まつだ)町に接する。市域中央の秦野盆地の盆地床は、丹沢山塊に発する水無(みずなし)川や葛葉(くずは)川などの中小河川により形成された複合扇状地で、西北端の扇頂から南東端の扇端にかけて緩やかに傾斜している。扇央部は水位が低く、扇端部には湧水が多く室(むろ)川が発する。盆地の東を金目(かなめ)川、西を四十八瀬(しじゆうはつせ)川が流れる。水田は東田原(ひがしたわら)・西田原を除き、金目川・葛葉川・四十八瀬川・室川の流域にわずかに見られる。近世は水無川を境に盆地の南を南波多野(みなみはだの)、北を北波多野と称している(風土記稿)。東名高速道路が盆地東端を北東から南西に通る。近世の矢倉沢(やぐらさわ)往還にあたる国道二四六号は盆地の中央をほぼ東西に貫き、東端にある善波(ぜんば)隧道の西寄りで丹沢札掛(たんざわふだかけ)を通る主要地方道秦野―津久井線が南北に交わる。同平塚―秦野線は東から中心市街の四ッ角(よつかど)を経て西の平沢(ひらさわ)で国道二四六号に交わる。同秦野―二宮線は南から入り北方で平塚―秦野線に交わる。盆地西部には県道秦野―大井線が南北に通り、途中に渋沢の峠(しぶさわのとうげ)や峠隧道がある。ほかに大山道あるいは富士道とよばれる道が各集落を通る。〔原始・古代〕縄文時代早期の遺跡は鶴巻(つるまき)の雨沼(あまぬま)遺跡など盆地縁辺に多い。中期では寺山(てらやま)遺跡、中―後期では曾屋吹上(そやふきあげ)遺跡、北矢名(きたやな)の天神台(てんじんだい)遺跡、後期では渋沢の堂坂(どうざか)遺跡などが規模の大きな遺跡である。弥生時代遺跡は盆地内では珍しく、平沢同明(ひらさわどうみよう)遺跡など低地にみられ、盆地外では鶴巻の根丸島(ねまるじま)遺跡のような大規模なものもある。古墳時代は市内唯一の前方後円墳の二子塚(ふたごづか)古墳が金目川左岸台地上の下大槻(しもおおづき)にあり、水無川流域には桜土手(さくらどて)古墳群などの小円墳がみられる。金目川流域には下大槻の岩井戸(いわいど)横穴群があるほか上流の落合(おちあい)にも横穴墓群がみられる。室川流域には尾尻(おじり)の鶴巻、盆地外では北矢名の天神脇(てんじんわき)などに横穴墓が多い。住居跡では尾尻の八幡山(はちまんやま)遺跡、曾屋の草山(くさやま)遺跡などに古墳時代のものがみられる。古代に秦氏の開拓した地と伝え、秦河勝が五大尊を祀るため当地に来住したとも伝える。「和名抄」東急本に余綾(よろき)郡幡多(はだ)郷(高山寺本では幡多野)がみえる。市域の大部分は古代には余綾郡に含まれていたらしいが、のち四十八瀬川以西の四ヵ村と栃窪(とちくぼ)村が足柄上郡に属したほかは大住(おおすみ)郡に属した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「秦野市」の意味・わかりやすい解説 秦野〔市〕はだの 神奈川県西部,丹沢山地南麓,秦野盆地にある市。 1955年秦野町と南秦野町,東秦野村,北秦野村が合体し市制。同年大根村の一部を編入。 63年には西秦野町を編入。地名は中世の郷村名に由来する。中心市街地は盆地南東部,水無川がつくる扇状地の扇端部にある。江戸時代は矢倉沢往還の宿場町で,市場町でもあり,十日市場が開かれた。江戸中期からは,盆地でタバコの栽培が盛んになり,タバコの取引で知られた。ラッカセイも特産の一つであったが,施設園芸による野菜,カーネーションなどが主要産物となっている。扇央部の曽屋などに工業団地が造成され,工業化が進む。また,宅地化も著しい。東部に鶴巻温泉,南部に震生湖がある。北部は塔ヶ岳,大山の南斜面で,登山道が通り,市域の一部は丹沢大山国定公園に属する。小田急電鉄小田原線,国道 246号線,東名高速道路が通り,秦野中井インターチェンジがある。面積 103.76km2。人口 16万2439(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by