長坂町(読み)ながさかちよう

日本歴史地名大系 「長坂町」の解説

長坂町
ながさかちよう

面積:四〇・八六平方キロ

郡のほぼ中央北西寄りに位置し、東は大泉おおいずみ村と高根たかね町、南東は須玉すたま町、南は武川むかわ村、西は小淵沢こぶちさわ町および釜無川を隔てて白州はくしゆう町に接する。八ヶ岳の南麓に南北一八キロ・東西六キロと細長く広がり、標高は北は権現ごんげん岳山頂の二七一五メートルから南端の四九七メートルと差がある。女取めとり三分一さんぶいちなどの湧水に恵まれ、河川はいずれもほぼ南流する。東側をはと川が湧水や小川を集めながら流れ、山麓台地を浸食して氾濫原をつくり、再び深い谷を刻んで台下の須玉町に落ちる。氾濫原は大八田おおばつた田圃とよぶ穀倉地で、周囲の台地に大八田集落がある。西側は古杣ふるそま川・たか川・女取川を集めた大深沢おおふかさわ川が七里岩しちりいわ台地を深く刻んで流れ釜無川に合流している。この二つの川谷に区切られた中央の台地を南北にJR中央本線が走り、日野春ひのはる駅・長坂駅がある。北部小荒間こあらまを東西に小海線が通り、大泉村境に甲斐小泉かいこいずみ駅がある。さらに上の山地を八ヶ岳公園道路が東西へ通る。中央自動車道は鳩川東の台地を北西に弧を描いて上る。

昭和六〇年(一九八五)に町誌編纂の一環として行われた町内遺跡分布調査では一六四ヵ所の遺跡が確認され、内訳は旧石器時代一、縄文時代一〇二(このうち縄文時代中期七〇)、弥生時代六、古墳時代集落一三・古墳四基、平安時代六八、中世以降四〇となっている。縄文時代と平安時代の遺跡は重複している場合が多い。遺跡の分布は標高九〇〇メートル以下を中心に広がりをみせ、最も標高の高い縄文時代遺跡は一〇二〇メートルほどの地にある。昭和四三年頃から中央自動車道建設に伴い事前調査された縄文時代の柳坪やなぎつぼA・B、頭無かしらなしなどの遺跡群からは曾利式後半期の良好な資料が得られた。これら一連の調査により、初めて研究の進んでいた長野県側との対比が可能となり、現在では定説となっている曾利式土器の分布の中心が八ヶ岳山麓から甲府盆地にかけての地域であることが究明されるきっかけとなった。


長坂町
ながさかまち

[現在地名]相川町長坂町

町部のほぼ中央部、急勾配の長い坂道の両側につくられた町。町名もこれに由来する。登り口は羽田はねだ町と塩屋しおや町の境をなし、登り詰めると味噌屋みそや町へ出る。坂道は古くから海岸沿いのしも町と上町台地を結ぶ主要な通りで、長さ約一五〇メートル、現在も一九一の石段が敷かれる。元禄七年(一六九四)検地帳(相川郷土博物館蔵)にはろう町とあり、町屋敷三反余。


長坂町
ながさかまち

[現在地名]弘前市長坂町

城の東側に位置し、北は亀甲かめのこう町、南は東長ひがしなが町、西は蔵主くらぬし町、東は笹森ささもり町に接し、町の中央を二階にかい堰が流れる。

正保三年(一六四六)津軽弘前城之絵図(内閣文庫蔵)には、町の西側が町屋で、堰を境として東側の北半分が小人町、南半分が町屋に町割されている。慶安二年(一六四九)の弘前古御絵図(市立弘前図書館蔵)では、堰より南が座頭ざとう町、堰より北が座頭町下町御小人ざとうまちしものまちおこびと町に分れ、座頭町は座頭一五、侍三、茶道二、町役小野屋佐左衛門ほか二、座頭町下町御小人町には小人一六、煙草作一、侍三ほかの割合で居住していた。


長坂町
ながさかちよう

[現在地名]三田市長坂

井草いのくさ村の南、武庫むこ川と支流の相野あいの川に挟まれた平地および段丘に立地する。もと井草村のうちで、大坂より丹波・丹後・但馬方面へ通じる街道沿いにあった長坂茶屋周辺に成立した町場。郷帳類では江戸時代を通して井草村のうちで高付された。「有馬郡誌」によれば、長坂平野一帯は一面野原で、街道沿いに往来の旅人用の休所を営む茶屋五軒があった。この野は三田藩主の鷹狩場でもあり、慶長六年(一六〇一)藩主有馬則頼が鷹狩に来た際、荒地化した耕作田を見つけ、以降は苦労して開墾した田地が荒廃しないよう、また街道茶屋の繁栄を願い永代諸役・年貢免除の恩恵を与えて当地の開発を奨励した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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