満家院(読み)みついえいん

日本歴史地名大系 「満家院」の解説

満家院
みついえいん

甲突こうつき川と神之かんの川の上流域、現鹿児島市の北西部と郡山こおりやま町域に比定される。院内の名などとして郡山中俣なかのまた有屋田ありやた西俣にしまた・東俣・河田かわだ(現郡山町)小山田こやまだ比志島ひしじま(現鹿児島市)などがあった(「伊集院諏訪御祭礼年四回数番帳」伊集院由緒記)。承安二年(一一七二)一二月八日の入道西念譲状(比志島文書)に「薩摩国満家院」とみえ、入道西念は大蔵義平に当院のうち「東限由須乃木乃中屋大路 南限土土呂木限満家迫 西限面松并結松行元頂乃藤山 北限千加尾峯頂」を譲渡している。この四至によって限られた地は、現郡山町西俣および郡山の北部にあたる。大蔵義平は加治木郷司加治木吉平(親平)のことと推測される(「加治木氏系図」加治木町立図書館蔵など)。薩摩国建久図田帳には「満家院百三十町」とあり、島津庄寄郡で院司は大蔵業平、地頭島津忠久であった。

〔院司職・地頭職〕

「薩隅日三州他家古城主来由記」の加治木城の項に加治木八郎親平がみえ、建久六年(一一九五)六月二三日に満家院安堵下文を源頼朝から与えられたと伝えている。幸光(親平の孫)は承久の乱に際して京方についたため没落し、税所兵衛祐満に給されたとされる。税所氏系図抄(国分郷土誌)によると、祐満の後、義祐・敦秀(篤秀)・敦胤(篤胤)と続き、敦秀は満家院村々田畠山野などを所持し、院内厚地山あつちやま(花尾権現、現郡山町)座主であったという。惣地頭職は島津忠久の後、忠時が継いだ。忠時の後、一時守護の兼帯ではなくなり、忠時の庶子大炊助長久が領した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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