源倫子(読み)みなもとのりんし

朝日日本歴史人物事典 「源倫子」の解説

源倫子

没年:天喜1.6.11(1053.6.29)
生年康保1(964)
平安中期の貴族の女性。藤原道長の外戚政権を実質的に完成させた女性。従一位。源雅信藤原穆子の娘。道長と結婚し,彰子,頼通,妍子,教通,威子,嬉子を生む。幼少期より后がねとして養育されたが,道長に見初められ,父の反対を説得した母の貢献で永延1(987)年結婚,嫡妻となり実家で同居。翌年彰子,正暦3(992)年に頼通,同5年妍子と次々に理想的な出産を遂げる。道長の姉東三条院詮子との仲も良く,長徳4(998)年従三位。長女彰子が一条天皇の中宮になると,長保2(1000)年従二位。その後彰子は敦成親王(後一条天皇),敦良親王(後朱雀天皇)を出産。妍子は三条天皇皇后,威子は後一条天皇皇后となり,男子摂政,大臣に上った。天皇の外祖母として,従一位,准三宮という臣下女性最高の栄誉を受け,后母として皇后たちに補佐助言を与えた。妍子,威子,夫に先立たれ,出家して法成寺供養などに晩年を送る。90歳の長寿を保ち,没後は夫とは別に,仁和寺源氏の氏墓に葬られた。<参考文献>岩井隆次「従一位源倫子」(『古代文化』37巻11号)

(服藤早苗)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「源倫子」の解説

源倫子
みなもとのりんし

964~1053.6.11

鷹司殿とも。平安中期の左大臣源雅信の女。母は藤原穆子(ぼくし)。987年(永延元)藤原道長と結婚し,翌年彰子(一条天皇中宮,後一条・後朱雀両天皇の母,上東門院)を生む。妍子(けんし)・威子・嬉子もそれぞれ三条・後一条・後朱雀の後宮に入る。男子に頼通・教通(のりみち)がいる。1008年(寛弘5)無官の女性としては異例の従一位に叙される。16年(長和5)人臣の妻としてははじめて,三后に準じて年官・年爵・封戸を与えられる。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「源倫子」の解説

源倫子 みなもとの-りんし

964-1053 平安時代中期,藤原道長の妻。
康保(こうほう)元年生まれ。源雅信の娘。母は藤原穆子(ぼくし)。藤原頼通(よりみち),教通(のりみち),彰子(一条天皇中宮),妍子(三条天皇中宮),威子(後一条天皇中宮),嬉子(敦良(あつなが)親王妃)を生む。従一位,准(じゅ)三宮。鷹司殿とよばれた。天喜(てんぎ)元年6月11日死去。90歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の源倫子の言及

【宇多源氏】より

…宇多天皇を祖とする賜姓源氏。一世の賜姓は藤原忠平室となった源順子など女子のみで,他は斉世,敦慶,敦固,敦実諸親王の子の賜姓である。敦実親王の系統が最も栄えた。親王の子源雅信(920‐993)は左大臣として朝廷に重きをなし,弟重信(922‐995)も左大臣に昇ったが,ともに父敦実親王の才能をうけて音楽の道に秀でていた。雅信の兄の寛朝(かんちよう),弟雅慶(がけい)はともに東寺長者,法務,大僧正となり,真言密教の重鎮として活躍した。…

※「源倫子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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