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藤原頼通 ふじわらのよりみち

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原頼通
ふじわらのよりみち

[生]正暦3(992).京都
[没]承保1(1074).2.2. 宇治
平安時代中期の廷臣。別称,宇治殿。道長の長男。母は左大臣源雅信の娘倫子。幼名は田鶴君。長保5 (1003) 年正五位下,侍従,右近衛少将。寛弘3 (06) 年従三位。同6年権中納言,長和2 (13) 年権大納言,同4年左近衛大将。同6年内大臣,父の地位を継いで摂政,氏長者,寛仁3 (19) 年関白となったが,政治の実権は父の手中にあり,政務の不手ぎわを責められて勘当を受けることさえあった。治安1 (21) 年居邸高陽院を壮麗に造営して世の耳目を集めた。万寿4 (27) 年道長が死去すると名実ともに政界の首座につき,後一条,後朱雀,後冷泉の3代にわたってその地位にあった。しかし後冷泉天皇の皇后とした娘寛子に皇子がなく,外祖父とはなれなかった。永承7 (52) 年道長宇治の別荘を仏寺平等院とした。康平4 (61) 年太政大臣となったがまもなく辞し,治暦3 (67) 年准三宮。翌年教通の要求によって,将来嫡子師実に譲ることを条件に関白の地位を退いた。こののち,師実の養女賢子が皇太子 (白河天皇) 妃となるに及んで師実への関白の譲渡を教通に迫ったが,生前ついに実現しなかった。延久4 (72) 年出家し,法名を蓮花覚,のち寂覚といった。

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百科事典マイペディアの解説

藤原頼通【ふじわらのよりみち】

平安中期の高官。道長の子。通称宇治殿。後一条・後朱雀(ごすざく)・後冷泉(ごれいぜい)3代の天皇の摂政・関白として道長以来の藤原氏による摂関政治の全盛期を維持したが,外戚(がいせき)関係のない後三条天皇の即位で苦境にたった。
→関連項目高陽院椋橋荘後一条天皇島津荘荘園整理定朝太閤橘御薗垂水東牧・垂水西牧鳥養牧藤原道長藤原師実

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原頼通 ふじわらの-よりみち

992-1074 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
正暦(しょうりゃく)3年1月生まれ。藤原道長の長男。母は源倫子。治安(じあん)元年(1021)従一位,左大臣となり,康平4年(1061)太政大臣。後一条天皇以後3朝の摂関をつとめる。後宮にいれた娘の寛子らに皇子が生まれず,天皇の外祖父とはなれなかった。歌壇を後援,また宇治に平等院を創建した。延久6年2月2日死去。83歳。通称は宇治殿。

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朝日日本歴史人物事典の解説

藤原頼通

没年:承保1.2.2(1074.3.2)
生年:正暦3.1(992)
平安中期の公卿。幼名は田鶴。法号は寂覚。宇治殿,宇治大相国と号す。藤原道長と左大臣源雅信の娘倫子の嫡男。13歳で春日祭使(藤原氏の氏社奈良の春日社の大祭に朝廷から派遣される使者)に選ばれた。その様子を父道長は愛情をもって日記に書きとめている。寛仁1(1017)年,26歳で後一条天皇の摂政を父道長から譲られた。以降,後朱雀,後冷泉両天皇(その母はすべて頼通の姉妹)が在位した半世紀のあいだ摂関の地位にあった。それは頼通の力量によるものでなく,各天皇の外戚(外祖父)として手抜かりなく打った道長の婚姻策が成功したからである。頼通と妻(具平親王の娘隆姫)との間には子がなく,ふたり目の妻をすすめられて困惑する頼通を,道長は「男たるもの,妻ひとりだけとは馬鹿げている。子どもをもうけることを考えるべきだ」といってたしなめた。この言葉に道長の結婚観とそれを基本にすえて実行した政略が集約されている。道長は寛仁3(1019)年に出家したが,その在世中,実権は道長にあり,美貌で温和な性格の頼通はときとして,譴責されることもあった。頼通の政治でみるべきものとしては,荘園整理ぐらいである。京内の約4haにおよぶ敷地に高陽院を経営し,万寿1(1024)年の秋,ここで催された競馬は有名である(『駒競行幸絵巻』)。末法思想により末法に入ったとされる永承7(1052)年道長から伝えられた宇治の別荘を寺院に改め平等院と名づけた。頼通が入内させたふたりの娘に皇子の誕生がなく,治暦4(1068)年弟教通に関白を譲った。同年,後三条天皇の即位により弱まっていた外戚の地位も失われた。晩年は平等院に隠棲,延久4(1072)年出家。

(朧谷寿)

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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのよりみち【藤原頼通】

992‐1074(正暦3‐承保1)
平安中期の公卿。摂政道長の長男。母は左大臣源雅信の女倫子。15歳で早くも従三位に昇り,累進して1017年(寛仁1)26歳で内大臣に進み,さらに父道長の譲により摂政となった。以後,後一条,後朱雀,後冷泉3代50余年にわたって摂政あるいは関白の座を占めた。その間,女子を天皇の後宮にいれて,外孫皇子の誕生を期待したが,ついにその実現をみず68年(治暦4)藤原氏を外戚としない後三条天皇の践祚を目前にして,関白を弟の教通に譲って宇治に隠退した。

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大辞林 第三版の解説

ふじわらのよりみち【藤原頼通】

992~1074) 平安中期の廷臣。道長の長男。通称、宇治の関白・宇治殿。後一条・後朱雀・後冷泉三代の天皇の摂政・関白となったが、天皇外戚となりえず、摂関家の後退を招いた。出家後、宇治に平等院鳳凰堂を建立。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原頼通
ふじわらのよりみち
(992―1074)

平安中期の公卿(くぎょう)。摂政(せっしょう)道長の長子。母は左大臣源雅信(まさのぶ)の女(むすめ)倫子(りんし)。幼名を田鶴(たづ)君という。1009年(寛弘6)権中納言(ごんちゅうなごん)、13年(長和2)権大納言、15年には左大将となった。17年(寛仁1)3月4日内大臣に任ぜられ、父道長が摂政を辞し、後を譲り受けて同16日摂政となった。19年関白、21年従(じゅ)一位に叙せられ、左大臣となった。後一条(ごいちじょう)、後朱雀(ごすざく)、後冷泉(ごれいぜい)天皇の3代にわたって摂関となり、37年(長暦1)養女(げんし)が後朱雀天皇に入内(じゅだい)し、また、具平(ともひら)親王の女との間に生まれた寛子(かんし)が51年(永承6)後冷泉天皇の皇后となり外戚(がいせき)の地位を築こうとしたが、いずれも皇子が生まれなかった。61年(康平4)太政(だいじょう)大臣となったが、翌年辞した。これより先、1052年には宇治の別業を平等院としていたが、67年(治暦3)後冷泉天皇の行幸をここに迎え准三后(じゅさんごう)となった。翌年後三条(ごさんじょう)天皇が即位。師実(もろざね)へ将来譲渡する約束のもとに弟教通(のりみち)に関白を譲り宇治に隠遁(いんとん)した。師実は天皇の信任厚く、師実の養子賢子が皇太子妃となり外戚としての地位を得た。しかし関白は頼通生前中には師実に譲られぬままに72年(延久4)出家、法名は蓮華覚(れんげかく)、のちに寂覚(じゃくかく)と称し、延久(えんきゅう)6年2月2日83歳で没した。宇治殿という。[山中 裕]

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世界大百科事典内の藤原頼通の言及

【歌合】より

…《十巻本歌合》と通称される。近世以来《伝宗尊(むねたか)親王筆歌合巻》と呼ばれていたが,その成立ははるかに古く,関白藤原頼通(よりみち)が主宰し,源経信が監修した史上初の歌合証本集成事業であることが,1938年(昭和13)近衛家文書の中からその総目録が発見されるにおよんで判明した。20巻本の《類聚歌合》の全貌が解明されたのも同じ時の発見による。…

【藤原氏】より

…日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家二条家一条家九条家鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。…

※「藤原頼通」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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