日本歴史地名大系 「滝尻村」の解説 滝尻村たきじりむら 福島県:いわき市旧磐城市地区滝尻村[現在地名]いわき市泉町(いずみまち)滝尻(たきじり)村域南端で釜戸(かまど)川が藤原(ふじわら)川に合流する。藤原川対岸は小名浜の西町(おなはまのにしちよう)村、西は泉村。もと市内岩間(いわま)町の薬師堂にあった正中二年(一三二五)二月一日の銅造阿弥陀像銘に「奥州菊田庄滝尻宿奉鋳之」とみえる。建武四年(一三三七)正月一六日の伊賀盛光代麻続盛清軍忠状(飯野八幡宮文書)に「押寄小山駿河権守館、菊田庄滝尻城搦手、不惜一命、致種々合戦」とみえ、南朝側の小山駿河守の立籠る滝尻城を攻撃している。文和二年(一三五三)五月日の石河兼光軍忠状(遠藤白川文書)に「至于東海道滝尻令供奉之間、兼光馳参、最前滝尻懸御目、令宿直畢」とみえ、北朝側の吉良貞家が観応二年(一三五一)末に滝尻城に拠ったことがわかる。 滝尻村たきじりむら 愛知県:額田郡額田町滝尻村[現在地名]額田町滝尻村域北部の村境となる男(おと)川左岸に集落が立地。東は中金(なかがね)村・栃原(とちはら)村、南は鳥川(とつかわ)村と各々山で接し、西は鳥川川で光久(みつひさ)村、北は山で淡淵(あわぶち)村、男川で片寄(かたよせ)村と境する。中世、男川(おとがわ)庄に属したという。天正一八年(一五九〇)岡崎城主田中吉政領、慶長六年(一六〇一)に幕府領。寛永一〇年(一六三三)に村高一九九石余のうち、一四七石余は千石地頭で赤松(あかまつ)陣屋(現安城市)の松平行隆知行所になり、五二石余は後の大垣新田藩になる戸田氏経知行所になり相給となった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by