熊来庄
くまきのしよう
現中島町の熊木川下流域の中島地区から七尾西湾・北湾岸の西岸地区、現穴水町曾福・鹿島・根木・志ヶ浦に比定される。古代能登郡熊来郷(和名抄)を継承。承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文に「熊来院」とみえ、公田数は旧来四九町九段八であったが、同元年の国衙の検注で三六町四段六に定められたとある。熊来郷の解体後、郷域の大半が熊木院に再編されたと思われる。文治五年(一一八九)の大屋庄立券文案(東京大学史料編纂所蔵)に、同庄南方の「熊木」との境は新崎(現穴水町)とあることから、熊木院の北限は新崎に南接する志賀浦地域(現同上)となる。貞応三年(一二二四)一〇月一日熊来庄が立庄され、立券文写(尾沢文書)に、庄官として公文代藤井国景・地頭内舎人藤原(熊来)兼員らが連署している。庄域の構成は立券文の前半部が欠損のため全貌は不明であるが、本郷・多気志・長前・深浦・長浦・志賀浦などからなり、熊木川流域の本郷は見並・村松・中島・高田・浜田・蔵田・大角・横田・薦依・山田の各里に分れていた。庄内には田島明神の神免田や地頭給田二町余のほか、定在家二一宇、熊甲宮(現久麻加夫都阿良加志比古神社)社人一九宇・賀茂宮神主一宇・日吉社右方神人一宇・地頭六宇の免在家二七宇も知られる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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