定林寺(読み)じようりんじ

日本歴史地名大系 「定林寺」の解説

定林寺
じようりんじ

[現在地名]八代町南

みなみ集落のほぼ中央に位置する。山号は慧光山。日蓮宗本尊は十界曼荼羅。現勝沼かつぬま休息の立正きゆうそくのりつしよう寺、現石和いさわ市部の遠妙いちべのおんみよう寺などとともに日蓮の旧跡寺院として知られる。開創にまつわり文永年間(一二六四―七五)日蓮が甲斐国内を遊化した折の逸話が伝わる。日蓮が当地の地蔵堂に投宿したところ、傍らの塚上に鬼火が現れた。八〇余年前、旅の途上で双生児を難産し母子ともに死去した婦人を、村人たちが回向することもなく葬ったため悪鬼となったものという。

定林寺
じようりんじ

[現在地名]中島町中島

熊耳山と号し、臨済宗国泰寺派。本尊は釈迦如来。貞享二年寺社由緒書上によれば、熊来将監の位牌所(氏寺)として嘉暦元年(一三二六)開創という。開山は京都東福寺前住の月浦宗暹。定林寺世代過去帳によれば、開基の熊来左近将監は法名定林寺殿真源祐公大居士、貞和元年(一三四五)没。

熊来氏は熊来庄地頭であったが、南北朝末期頃には一時退転しており、その後享禄二年(一五二九)五月に同庄の代官請負が知られるが、戦国後期に至り庄内の中心部は守護畠山一族の所領となっている(明徳記・実隆公記紙背文書・諸橋文書)。したがって当寺もこの頃には畠山氏およびその重臣層とかかわりの深い寺院となっており、庄内の熊来郷内に寺領をもち、能登における臨済宗東福寺栗棘庵派の拠点となっていた。

定林寺
じようりんじ

[現在地名]大牟田市今山

三池みいけ山北西麓、字大塔おおとうにある。熊耳山と号し、曹洞宗。本尊は毘婆尼仏。中世の国人領主三池氏の菩提寺。「筑後将士軍談」所収三池氏系図によれば、正治元年(一一九九)に三池季時が建立したと伝えるが、三池氏の三池みいけ入部は鎌倉時代後期であり、信じがたい。当寺の墓地にある開山中翁邦墓碑銘には文安二年(一四四五)六月七日の没年が記載され、また応永五年(一三九八)在銘の五輪塔が残存することなどから、創建は南北朝末期ないし室町時代初期と思われる。

定林寺
じようりんじ

[現在地名]明日香村大字立部小字下垣内

立部たちべ集落の西にあり、寺から西方にかけて旧伽藍跡がある。一名立部寺。紫雲山法元ほうげん院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。現在、弘化三年(一八四六)建立とされる小規模な本堂と宝暦八年(一七五八)建立の庫裏があるのみ。七代記(広島大学蔵)に上宮太子の造寺を記して「定林寺、世人名為立部寺」とあり、奈良時代末には定林寺を太子建立の寺とする説が認められる。康和三年(一一〇一)一一月二日の定林寺妙安寺所司等解(法隆寺文書)によれば、妙安みようあん寺とともに法隆寺末寺に属していたことがわかる。室町期の越智郷段銭帳(春日大社文書)には「定林寺五郎方三町 近年二町五段」と記されている。

定林寺
じようりんじ

[現在地名]下館市岡芹

真岡もおか街道沿いに位置する。曹洞宗、玉叟山と号し、本尊は釈迦牟尼仏。はじめ稲野辺いなのべにあり、真言宗般若山定林寺と称した。文明一三年(一四八一)水谷氏の菩提所となり結城乗国じようこく寺の良室栄欣を招請して開山とし、曹洞宗玉叟山と改めた。享禄元年(一五二八)水谷勝氏が没した際に下館城内に移転、さらに寛永七年(一六三〇)八代水谷勝隆により現在地に移される。水谷氏時代には稲野辺・岡芹おかぜり両村内に一五〇石分を付置かれ、その後幕府から朱印地二〇石を付与された。明治一四年(一八八一)火災にあい、七堂伽藍・寺宝などを焼失したが、水谷勝氏の肖像画二軸は現存する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報