狩川村(読み)かりかわむら

日本歴史地名大系 「狩川村」の解説

狩川村
かりかわむら

[現在地名]立川町狩川

庄内平野の東端に位置し、東は荒鍋あらなべ新田村東興野ひがしこうや村、西は西興野村、南は添津そえづ村、北は最上川を隔て飽海あくみ郡。江戸街道沿いにある。狩河村とも記された。枝郷として今新町いまあらまち村・貢地目ぐじめ村がある。地内には縄文遺跡や弥生遺跡があり、大半は羽黒山から北へ張出した丘陵山腹や山麓地帯に散在する。往古小野千軒といわれる大集落があったといわれ、嘉祥三年(八五〇)の大地震によって全滅したと伝えられる(筆濃余理)。南端かさ山の狩川経塚や、西部水田地帯から出土する須恵器土師器などは平安期から鎌倉初期に集落があったことを物語るとされ、郡司小野良実の在住説や、それに伴う小野塚・小野千軒などの伝説を裏付けるものともいわれる。

鎌倉期には中尊寺(現岩手県西磐井郡平泉町)領で、嘉暦二年(一三二七)三月日の中尊寺衆徒等解案(中尊寺文書)に「羽州狩河以下八ケ所寺役一向退転之間」とあり、当地など八ヵ所の寺役の不納を中尊寺の衆徒が幕府に訴えている。南北朝期に入ると、白河結城氏の所領となった。延元元年(一三三六)四月二日・応安二年(一三六九)六月一九日・応永四年(一三九七)一〇月二一日の結城氏の譲状(白河故事考所収文書)に出羽国「狩河郷内田在家」とあり、結城宗弘から顕朝へ、顕朝から満朝へと譲られている。弘治元年(一五五五)四月一六日、留守六郎が「カリカハ」で討死したという(「来迎寺年代記」伊藤文書)。なお永禄年間(一五五八―七〇)と推定される九月一七日の土佐林禅棟書状写をはじめ、「筆濃余理」所収文書などには「狩川駅」とみえ、当地が交通上の要地であり、しばしば戦闘が行われたことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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