日本歴史地名大系 「狩川村」の解説
狩川村
かりかわむら
庄内平野の東端に位置し、東は
鎌倉期には中尊寺(現岩手県西磐井郡平泉町)領で、嘉暦二年(一三二七)三月日の中尊寺衆徒等解案(中尊寺文書)に「羽州狩河以下八ケ所寺役一向退転之間」とあり、当地など八ヵ所の寺役の不納を中尊寺の衆徒が幕府に訴えている。南北朝期に入ると、白河結城氏の所領となった。延元元年(一三三六)四月二日・応安二年(一三六九)六月一九日・応永四年(一三九七)一〇月二一日の結城氏の譲状(白河故事考所収文書)に出羽国「狩河郷内田在家」とあり、結城宗弘から顕朝へ、顕朝から満朝へと譲られている。弘治元年(一五五五)四月一六日、留守六郎が「カリカハ」で討死したという(「来迎寺年代記」伊藤文書)。なお永禄年間(一五五八―七〇)と推定される九月一七日の土佐林禅棟書状写をはじめ、「筆濃余理」所収文書などには「狩川駅」とみえ、当地が交通上の要地であり、しばしば戦闘が行われたことが知られる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報