衆徒(読み)シュト

デジタル大辞泉 「衆徒」の意味・読み・例文・類語

しゅ‐と【衆徒】

平安時代以後、諸大寺に止宿していた多くの僧。のちには僧兵をもいう。衆僧僧徒。しゅうと。
特に、中世、奈良興福寺の僧兵。

しゅう‐と【衆徒】

しゅと(衆徒)

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精選版 日本国語大辞典 「衆徒」の意味・読み・例文・類語

しゅ‐と【衆徒】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 平安時代以後、京都・奈良の諸大寺に止宿していた多くの僧侶。衆僧。僧徒。しゅうと。
    1. [初出の実例]「衆徒 シュト」(出典:色葉字類抄(1177‐81))
  3. 比叡山で、上の階級に属する僧をいう。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  4. 特に奈良興福寺で、武器をもって社頭や寺門を防御した下級僧侶をいう。寺中衆徒(寺住衆徒)と田舎衆徒があり、特に寺中衆徒を呼ぶことが多いが、混用することもある。大乗院と一乗院に分かれて所属した。
    1. [初出の実例]「衆徒へ御教書案 鶴夜叉法師父子両人装束事 衆中楚忽沙汰以外候」(出典:経覚私要鈔‐応永二二年(1415)一一月一二日)

衆徒の補助注記

色葉字類抄」の例、前田本では「シウト」とある。


しゅう‐と【衆徒】

  1. 〘 名詞 〙しゅと(衆徒)
    1. [初出の実例]「衆徒 シウト」(出典:色葉字類抄(1177‐81))

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「衆徒」の意味・わかりやすい解説

衆徒(しゅと)
しゅと

「しゅうと」ともいう。平安時代ごろから、東大寺、興福寺、さらには比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)、園城寺(おんじょうじ)、高野山(こうやさん)金剛峯寺(こんごうぶじ)などで僧の集団化が進み、また吉野(よしの)の大峰山(おおみねさん)にも、後の日光山にも修験(しゅげん)の徒が集まるようになった。そうした大寺の僧侶(そうりょ)の集団を大衆(だいしゅ)といい、その成員の一人一人を大衆の徒という意味で、衆徒とよぶようになった。

 衆徒の範囲は、『南都僧徒職服記』では、髪をおろし得度受戒(とくどじゅかい)したもの一般をさし、高位にある学侶に進むものもあったが、その中﨟(ちゅうろう)あたりまでが昇進の限度であった。のち武家出身者が多くなり、白袈裟(しろげさ)、黒頭巾(くろずきん)、帯刀のものも現れ、僧兵となった。官務という事務職、沙汰衆(さたしゅ)という記録所員、貝衆という集会の合図の貝を吹くものなどがあり、その他は平衆徒とされている。『驢嘶余(らいろせいよ)』では、延暦寺の衆徒は清僧であり、大僧都法印(だいそうずほういん)の位にまで進むことができ、まれには僧正(そうじょう)にもなれたと記す。平民出身でも可能であったという。高野山では、『諸宗階級』で、学侶(がくりょ)、定額(じょうがく)僧ともいわれたといい、衆分、入寺、阿闍梨(あじゃり)の3階級があったという。それぞれ武器を帯しており、他寺や官衙(かんが)との争いを生ずることが多く、その横暴さが目だった。

[木内堯央]

 平安時代の律令(りつりょう)制の弛緩(しかん)するころになると、畿内(きない)を中心とする古来の有力寺院では、僧侶の質が低下し、かつ寺院の経済的進出と自衛のため、人員の増加をきたし、多くの僧兵を擁するようになった。興福寺では平安末から、大和(やまと)(奈良県)の寺領荘園(しょうえん)地主のうちの有力者を、僧衆に準じて衆徒と称し、春日(かすが)社の白衣神人(びゃくえじにん)である国民(こくみん)とあわせて、武力として組織し、鎌倉時代に入っては衆徒20人を選んで4年間興福寺に在勤させ、これを衆中(しゅうじゅう)または官符(かんぷ)衆徒とよび、学侶・六方衆(ろっぽうしゅう)の指揮下におかしめた。しかし南北朝時代以降は諸国動乱の影響を受けて、寺内でも一乗院、大乗院などが相争い、この両者に分属した衆徒はしだいに実力を養って、本寺内の実権を握り、大小名化の道をたどった。その有力なものには乾(いぬい)、長谷川(はせがわ)、中川、南、散在、平田など大和六党があり、国内外の諸勢力と離合しつつ抗争を繰り返したが、結局、織田信長の中央進出と結んだ一乗院門跡(もんぜき)の坊人筆頭筒井(つつい)氏が、大和一円を制圧、宰領するに至り、興福寺その他諸大寺も大打撃を受け、その衰退とともに衆徒もその存在の根拠を失うに至った。

[平井良朋]


衆徒(しゅうと)
しゅうと

衆徒

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「衆徒」の意味・わかりやすい解説

衆徒
しゅと

持戒の清僧をいうこともあるが,一般には,平安時代以降諸大寺に止宿していた多数の僧侶の総称に用いる。院政時代,延暦寺,興福寺などの強訴の主体となった衆徒,大衆と呼ばれるものがそれである。興福寺では,遅くとも南北朝時代には学業僧である学侶や六方衆とは別に,衆徒と呼ばれ弓矢を専業とする僧兵の棟梁たちがいた。彼らは国中に散住したが,そのうち 20人は興福寺内に住し官符衆徒と称された。衆徒は一乗院と大乗院に分属したが,なかでも筒井 (一乗院) ,古市,豊田 (大乗院) などは有名で,戦国時代には次第に独立し,大名化していった。

衆徒
しゅうと

衆徒」のページをご覧ください。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「衆徒」の解説

衆徒
しゅと

「しゅうと」とも。衆僧・大衆(だいしゅ)とも。一山一寺の僧侶の総称。とくに平安時代以降,南都北嶺の諸大寺に住した多くの僧侶をいい,僧兵をもさすようになった。寺院社会は別当など上層執行部のほか,教学の学習・法会の運営を行う学侶(がくりょ),堂塔を管理し雑務をになう堂衆(どうしゅ)の2階層からなるが,衆徒は学侶を意味する場合と堂衆が主体となる場合があった。鎌倉中期以降の興福寺では,学侶や堂衆とは別組織の武士的な下級僧侶集団を意味し,衆徒・国民と併称され,寺住(寺中)衆徒と田舎衆徒があった。浄土真宗では住職の子弟などで得度した者をいう。

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世界大百科事典(旧版)内の衆徒の言及

【山門使節】より

…南北朝時代末期に室町幕府が延暦寺の衆徒統制のために作った組織。メンバーには,当時山徒と呼ばれていた衆徒らのうちで特に強勢な者が選ばれた。…

【大和国】より

…大和国の春日神領国化の始まりだが,神仏習合思想を利用して春日社との一体化を進めていた興福寺は大和国の支配を主張,1135年春日若宮社を創建,翌年から若宮祭を大和一国の大祭として興福寺境内で執行,神国大和を称して国中の社寺の末社・末寺化や社寺をまつる在地領主の土豪らの従属を強いた。土豪らを衆徒(末寺坊主),国民(末社神主)に列して在地代官とし,僧兵として武力に起用した。この末社末寺制と衆徒国民制とによって興福寺は大和国の支配組織を完成,摂関家代官の大和国司を有名無実たらしめた。…

※「衆徒」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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