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狩野一渓 かのう いっけい

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

狩野一渓 かのう-いっけい

1599-1662 江戸時代前期の画家。
慶長4年生まれ。狩野重郷(しげさと)の子。狩野光信にまなんだといわれる。寛永2年3代将軍徳川家光にはじめて対面し,以後朝鮮に献じる屏風を制作するなど,幕府の御用をつとめた。寛文2年1月20日死去。64歳。名は重良。通称は内膳。著作に「丹青若木(たんせいじゃくぼく)集」「後素集」。

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朝日日本歴史人物事典の解説

狩野一渓

没年:寛文2.1.20(1662.3.10)
生年:慶長4(1599)
江戸前期の画家。名は重良,一渓はその号。通称は父一翁(狩野内膳)を継いで内膳。狩野光信についたと伝えるが,年代的にみて,ごくわずかの期間であったと推定される。元和9(1623)年『後素集』を書いて中国画論を日本にはじめて体系的に紹介した。寛永2(1625)年将軍徳川家光に御目見えし,以後御用絵師として幕府関係の仕事をしながら江戸で活躍し,朝鮮へ献上したいわゆる朝鮮屏風も制作した。勝田竹翁の子良信を養子にした。作品は父のものと混同され不明な点が多い。代表作に「吉野花見図屏風」(リッチモンド美術館蔵)がある。完全な形で遺る日本で最も早い画伝『丹青若木集』の著者として知られている。<参考文献>添田達嶺「狩野一庵,一翁,一渓及び栄翁重政に就いて」(『芸術』9巻13号)

(河野元昭)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典内の狩野一渓の言及

【狩野派】より

…それが17世紀後半から行われる画史の編纂である。 最初の画史といわれる《丹青若木集》は光信の門人とされる狩野一渓(1599‐1662)の手になるものであり,京狩野の狩野永納は《本朝画史》(1693)を完成させている。とくに《本朝画史》は,狩野派はやまと絵と漢画の両者を総合したものという見方に立って編集されている。…

【画論】より

… 17世紀に入ると,中国から新たにもたらされた画論の刺激や,画壇における流派の固定化とそれにともなう過去の伝統回顧の気運を背景に,画論・画史の作成が狩野派,土佐派の画家によって行われた。狩野一渓(1599‐1662)の《後素集》(1623)は,中国画論や画題の簡略な紹介であり,同じく一渓の《丹青若木集》は,慶安~承応(1648-55)の間の成立とされ,室町時代以降の153名の日本画家の略伝に短評を加えて,日本画家伝の最初とされるが,同じころ狩野素川(1607‐58)も《図絵宝鑑》と題する,より詳細な日本画家伝を編んだことが知られている。また《画工便覧》(1673ころ)は,《丹青若木集》の増補版というべき性質のものである。…

※「狩野一渓」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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