中国では,一般に仏教など外来宗教の建物を〈寺〉というのに対し,中国固有の宗教建築を〈廟〉とよぶ。ただし,道教の寺院は〈観〉または〈宮〉であり,ラマ教寺院は〈廟〉とよばれることもある。清朝の皇帝の避暑地,河北省承徳市に現存する普陀宗乗廟はその代表例である。廟はほんらい祖霊をまつる宗廟のことであったが,のちにその領域が拡大され,超能力を具有すると信じられた死者,自然物,動物などをまつる民間の〈祠〉も廟ないし祠廟とよぶようになった。おおむね大規模のものは廟,小規模のものは祠だが,その境界はあいまいである。旧中国では都市と農村を問わず至るところに祠廟があり,民衆の信仰を集めていた。国家はこうした無数の祠廟を野放しにしていたわけではなく,〈祀典(してん)〉(国家公認の神と祠廟に関する公的文書)を定めてその管理をはかった。この祀典に記載されていないものが淫祠(いんし)(淫祠邪教)であり,儒教的祭祀理念から逸脱するものとして,熱心な地方官によって破壊されることもあった。唐の狄仁桀(てきじんけつ)は呉・楚地方を視察した際,禹,呉太伯,季札(きさつ),伍員(ごうん)(子胥(ししよ))をまつる四祠だけ残し,1700にものぼる祠廟を淫祠と決めつけことごとく取りこわした。しかしそれらはおおむね黙認されるのが常であり,民衆の熱心な信仰のゆえに,淫祠を正祠と公認せざるをえなくなった事例も数多い。
特異な祠廟に生祠(せいし)とよばれるものがある。その地方に善政をしいた役人の在職中か転任するときに建てられるもので,早くも《漢書》于定国伝に見えている。ただこれは恒久的に存続するとは限らず,新任の役人が治績をあげればさっそく替えられることもあった。代表的な祠廟として,関帝廟(関羽をまつる),城隍(じようこう)廟(都市の守護神をまつる),娘娘(ニヤンニヤン)廟(子授けの女神をまつる),媽祖(まそ)廟(航海安全の女神をまつる,元后宮ともいう)などがあり,これらは今なお台湾や華僑の多い国々で善男善女の願掛けの対象になっている。
執筆者:三浦 国雄
日本では近世になって,豊臣秀吉や徳川家康など権力者の霊を廟としてまつり,その建築は霊廟建築として著しく発達した。京都阿弥陀ヶ峰の豊国廟(豊国(とよくに)神社)は秀吉の霊をまつり,1599年(慶長4)に営まれた古い例であり,その建築に際しては,北野神社に用いられていた石の間造,すなわち本殿とその前にたつ拝殿とを,石の間(相の間)で連結した形式を採用した。石の間造はこの後,霊廟建築の範となり,家康をまつった日光東照宮(1636)をはじめとして,各地の東照宮でも好んで採用された。家康の神号が東照大権現であることから,この形式は権現造と称された。権現造のもとは神社建築であったが,霊屋(たまや)には宝形(ほうぎよう)造(屋根面が一つの頂点に集まる屋根形式)や入母屋造のものも多く,こちらは仏堂がもとになっている。近世の霊廟は神社と仏寺の形式を自由に採用し,また両者を折衷して新しい建築様式を確立した。
権力者たちの建築であった霊廟は,近世初期には権力者たちの様式である桃山様式やその系譜をひく様式によっており,彫物を多く用い,彩色し漆塗とするなど,豪華絢爛に飾って,権力と格式を表現した。霊廟建築には,各地の東照宮のほか,徳川3代家光の大猷院霊廟(1653。栃木)や,このほか松代藩真田家の信重霊屋(1649。長野)・同信之霊屋(1660。長野),津軽為信霊屋(江戸前期。青森),高野山にある松平秀康・同母霊屋(1607。1604),上杉謙信霊屋(江戸前期),佐竹義重霊屋(1599)など各藩大名のものが現存している。なお古代における香椎廟(香椎宮)や古代末期11世紀に成立した北野天満宮なども廟に含める場合がある。
→霊屋
執筆者:宮沢 智士
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
道観(道教の寺院)をはじめ、神祠(しんし)、仏寺などの汎称(はんしょう)。東岳廟、城隍(じょうこう)廟、関帝(かんてい)廟、娘娘(ニャンニャン)廟、呂祖(ろそ)廟などは道教系であるが、土地廟、竜王廟、財神廟、胡仙(こせん)廟などは民間信仰に属する小規模なものが多い。寺院も俗には廟とよばれることがあるが、とくにチベット仏教(ラマ教)寺院は北京(ペキン)の雍和(ようわ)宮を除けば多く喇嘛(らま)廟とよばれる。儒教でも孔子を祀(まつ)る文廟(ぶんびょう)、夫子廟がある。さらに一王朝の祖霊を祀るのは宗廟(そうびょう)で、太廟(たいびょう)ともいう。転じて朝廷そのものをも廟堂という。一家一族の祖霊を祀る祠堂(しどう)は家廟という。しかし通常は道観および神祠をさし、一般民衆との縁から、そこに祀られる神の誕辰(たんしん)(聖誕日)には一定期間の祭礼が催され、その開帳を開廟、縁日を廟会(びょうえ)とよんで、廟の内外には商人が出て廟市が立つ。各地の著名な廟、たとえば娘娘廟の祭礼などは、庶民の信仰と交易と遊楽の機会となっていたが、信仰の衰退につれて開かれなくなり、廟そのものも特別な宗教遺跡を除いて多くは廃絶した。
[澤田瑞穂]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…中国において,寺院,道観,神祠を総称して廟とよび,そこにまつられる神仏の誕辰を記念して若干日間は一般に開放され,祭礼が行われる。これを廟会とよび,日本の縁日にあたる。…
…その自由奔放な装飾・造形は,民族的な色合いを濃く表現したものといえよう。李朝では儒教が奨励され,孔子をまつる廟と郷校(きようこう)(学校)を付属させた文廟が各地の都邑に建てられた。これらの郷校では,儒者のうち中央官庁に入れなかった人々が教師になり子弟を教育した。…
※「廟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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