(小川知二)
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桃山時代の狩野派の画家。狩野永徳の嫡男。右京と称したが,のちに同名の狩野派画家と区別するため古右京と呼びならわされる。安土城(1576),肥前名護屋城(1592),徳川秀忠邸(1603)などの障壁画制作に従事した。桃山時代には巨樹を中心としたダイナミックな構成,筆力の強い豪快な作風が盛行するが,光信の画風はそれらと相違して繊細で優美な特色を示している。たとえば園城寺勧学院客殿障壁画《花木図》(1600)では自然な奥行きをもった空間につつましやかにモティーフを配しており,また光信とその周辺の作例と考えられる法然院方丈,都久夫須麻(つくぶすま)神社本殿,高台寺霊屋などの障壁画もすべて同様の傾向をみせている。近世の画史画伝類では概して,父永徳に比して著しく低い評価を受けているが,近年あらためてその中世やまと絵を継承した温雅な画風が見直されている。
執筆者:奥平 俊六
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桃山後期の画家。狩野永徳(えいとく)の嫡男として狩野宗家を受け継いだ。若年のころから父に従い、安土(あづち)城障壁画(しょうへきが)制作(1576)などに参加。さらに父永徳没後は狩野家の中心的存在として同派を指導。豊臣(とよとみ)秀吉の肥前国(佐賀県)名護屋(なごや)城作事では、その山里書院および御上の襖絵(ふすまえ)を制作、また秀吉亡きあとは徳川政権にも仕え、秀忠(ひでただ)の殿舎に上京(かみぎょう)と内裏(だいり)の絵図(洛中(らくちゅう)図)を描いた。1608年(慶長13)幕府の命で江戸へ下り、帰途桑名で客死した。代表作に園城寺(おんじょうじ)勧学院客殿障壁画(1600)がある。父の巨名に隠れ、ともすれば「下手(へた)右京」と酷評されてきたが、大和絵(やまとえ)に学んだ繊細で優美な彼の画風は、桃山後期の狩野派様式を代表するものとして大いに評価すべきであろう。
[榊原 悟]
『土居次義著『日本美術絵画全集9 狩野永徳・光信』(1981・集英社)』
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…弥勒の世の到来と呼ばれた,黄金のはんらんするこの時代のイメージは,障壁画の遺品を通じて十分に受けとめることができる。狩野光信筆の園城(おんじよう)寺勧学院《花木図襖絵》(1600)の魅力は,室外の光を反射して微妙に色合いを変える金箔地の効果にある。金地の静かな輝きを生かした優美な抒情性への志向が父永徳の画風にかわる光信の画の新しい要素とみられる。…
…室町中期から明治初期まで続いた,日本画の最も代表的な流派。15世紀中ごろに室町幕府の御用絵師的な地位についた狩野正信を始祖とする。正信は俗人の専門画家でやまと絵と漢画の両方を手がけ,とくに漢画において時流に即してその内容を平明なものにした。流派としての基礎を築いたのは正信の子の元信である。漢画の表現力にやまと絵の彩色を加えた明快で装飾的な画面は,当時の好みを反映させたものであり,また工房を組織しての共同制作は数多い障壁画制作にかなうものであった。…
…最初の作品の登場は1595年(文禄4)前後であろう。それは秀吉の朝鮮出兵の基地名護屋城の障壁画制作のため九州に下っていた狩野光信一門の画家が,業を終えて帰京したころに当たる。光信一門の画家は九州滞在中に長崎を訪れて南蛮風俗に接し,それが南蛮屛風誕生の契機となったと想像される。…
※「狩野光信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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