玉林院跡(読み)ぎよくりんいんあと

日本歴史地名大系 「玉林院跡」の解説

玉林院跡
ぎよくりんいんあと

[現在地名]浦和市中尾

しば川右岸の大宮台地上に位置する。本山派修験に属し、寺伝によれば延暦九年(七九〇)に黒珍が開いたという。戦国時代には下足立三十三郷(現大宮市以南、旧足立郡南部)の年行事職を勤めていた。天文二二年(一五五三)五月二一日の聖護院門跡御教書写(饗庭家文書)によると、玉林坊は下足立の伊勢熊野先達衆分檀那職などを安堵されている。なお上足立の伊勢熊野先達衆分檀那職は大行だいぎよう(現鴻巣市)が安堵されている(同日「聖護院門跡御教書写」武州文書)。弘治二年(一五五六)には岩付いわつき(現岩槻市)城主太田資正が、永禄九年(一五六六)には同城主太田氏資が下足立三十三郷の年行事職を玉林坊に対して京都聖護院の補任に基づき安堵している(弘治二年一一月二九日「太田資正書状写」・永禄九年一〇月二一日「太田氏資書状写」武州文書)。このように戦国時代には岩付太田氏の庇護のもとに足立郡南半分の本山派修験を統括し強大な勢力をもっていた。天正一二年(一五八四)篠井ささい観音堂(現狭山市)入東につとう宮寺みやでら(現入間市)知行をめぐって争っている(八月八日「聖護院門跡御教書」篠井文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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