寺伝は、円珍の没後、増命・勢祐・智静・最円・静覚と法脈を継承、増誉の代に一寺を創したのが聖護院の創始と伝える。応仁元年(一四六七)二月七日の熊野三所権現順礼先達職之事(若王子神社文書)に「御宇白河院、寛治四年正月廿二日、熊野三山御幸之時、以聖護院門跡元祖法務前大僧正増誉為御先達、還幸之後、依三山引導之賞被補検校職、修験道之先達・検校之両職是濫觴也」とあり、寛治四年(一〇九〇)一月の白河上皇熊野詣に増誉が先達し、その賞として熊野三山検校職に任ぜられ、修験道を統轄したことが知られるが、その法務を営むために白川院を創したのが当院の直接の起りである(諸門跡譜)。次いで二世増智・三世覚忠が入室し、覚忠の時に新たに聖護院と号したという(坊目誌)。次いで四世門主に後白河天皇の皇子静恵法親王が入ってより宮門跡となり、以後七世尊円法親王以下覚恵・覚助・忠助・順助・恵助と代々法親王が門主として入室した(聖護院記録)。
記録上では「兵範記」仁安二年(一一六七)四月二六日条に「参白河法務御房、中御門末聖護院也」とみえるのが早い例で、場所も
しかし応仁二年八月五日の兵乱によって「東西兵破聖護院及諸教寺」と焼失(碧山日録)。
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京都市左京区にある本山修験宗の大本山。もと天台宗寺門派の大本山で円満院,実相院とともに三門跡の一つ。本尊は不動明王。智証大師円珍の開創と伝えられる。はじめ常光院と称したが,11世紀末に増誉が入寺して聖護院と改称した。増誉は1090年(寛治4)に白河上皇の熊野参詣に先達をつとめ,その功として熊野三山別当に任ぜられ,以後,当寺は修験道と深い関係をもった。平安末期,後白河天皇の皇子静恵法親王が入寺して以後,代々法親王が入寺してあとをつぐことが多くなり,当寺門跡が三井寺長吏と熊野三山別当を兼ねるようになった。近世の寺領1430石。1613年(慶長18)には江戸幕府から修験道本山法頭に指定され,以後,本山派山伏を支配して近世を推移し,寺運は隆盛をきわめた。寺地はしばしば移転し,応仁の乱で焼けてから戦国時代には洛北岩倉の長谷(ながたに)に,また近世初期には上京の烏丸上立売(からすまかみたちうり)にあり,1676年(延宝4)から現在地に移った。いま,主要な堂舎に宸殿,本堂,書院,小書院,北殿,庫裏,表門などがあるが,庫裏のほかは,この移転のときの建築である。なお,本堂安置の不動明王立像(藤原時代)と智証大師座像(1143年)は重要文化財である。また書院は小書院とともに禁裏の御殿を下賜されて移建したもので,江戸前期の書院建築の好例として重要文化財。皇室との由縁は深く,江戸後期,禁裏炎上のとき,光格・孝明2帝の仮宮となり,いま聖護院旧仮皇居として史跡になっている。また8月1日の山伏行列は,この日,全国から集まった数千の山伏が大峰入りをするため,旗をたて,法螺貝を吹きながら,みやこ大路を当寺から京都駅までねり歩くもので,当寺の名物となっている。なお,土地の名産にかつて聖護院大根があり,千枚漬などに用いられたが,現在では上賀茂や滋賀県下で栽培されている。
→本山派
執筆者:藤井 学
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
京都市左京区聖護院中町にある天台宗系の単立寺院で、本山修験(ほんざんしゅげん)宗の総本山でもある。もと天台宗寺門派本山で天台三門跡(もんぜき)の一つ。本尊は不動明王。智証(ちしょう)大師円珍(えんちん)の創建。初めは常光院と称したが、11世紀の初めころ白河(しらかわ)上皇の熊野三山参詣の折に先達(せんだつ)をつとめた増誉(ぞうよ)大僧正が上皇の勅願により中興し、聖護院と寺名を改めた。増誉僧正のあと、4代目の門主に後白河(ごしらかわ)天皇の皇子静恵法親王(じょうえほっしんのう)がなってからは宮門跡となり、以後歴代親王が継承、園城寺(おんじょうじ)長吏、熊野三山別当職を兼ね、1613年(慶長18)天台修験道本山派の本山となる。応仁(おうにん)の乱の兵火や火災に再三あって焼失、愛宕(おたぎ)郡岩倉の長谷(ながたに)や烏丸上立売(からすまかみたちうり)(現上京(かみぎょう)区)にも移ったが、1676年(延宝4)現在地に再建された。本堂、宸殿(しんでん)、表門、書院、玄門などはそのとき建築されたもので、書院は江戸時代初期の書院例を示すものとして国の重要文化財に指定されている。1788年(天明8)、1854年(安政1)の二度の皇居火災のおり、聖護院が仮皇居となり、また維新後は山階(やましな)宮の在所であったため、遺品も数多い。木造不動明王立像2体、木造智証大師坐像(ざぞう)、光格(こうかく)天皇宸翰(しんかん)神変大菩薩(だいぼさつ)号勅書、後陽成院(ごようぜいいん)宸翰御消息、絹本着色熊野曼荼羅(まんだら)図など国重要文化財も数多い。毎年8月1日は奈良吉野の大峰(おおみね)に峰入りをする数千の修験者(しゅげんじゃ)の行列で有名。東隣に塔頭(たっちゅう)積善院(しゃくぜんいん)がある。
[中山清田]
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京都市左京区にある本山修験宗の総本山。寺伝によれば,役小角(えんのおづの)によって洛北岩倉に開かれ,円珍の相続で天台宗寺門派となるというが,1090年(寛治4)園城寺の増誉(ぞうよ)が白河上皇から初代熊野三山検校(けんぎょう)に任じられ,法務を営むために白川院(聖護院)の創建を許されたことに始まる。後白河天皇皇子の静恵(じょうえ)法親王が入寺して門跡寺院となり,三山検校を兼ねた。室町時代には将軍家との関係も深く,門跡道興の活躍により天台系修験教団の本山派が形成され,本山となった。江戸時代は修験道本山派法頭として同派の諸国山伏を統轄し,寺領1403石があった。1872年(明治5)の修験道禁止令により天台宗寺門派に編入され,1946年(昭和21)修験宗として独立。境内は国史跡。
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※「聖護院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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