聖護院(読み)ショウゴイン

デジタル大辞泉 「聖護院」の意味・読み・例文・類語

しょうご‐いん〔シヤウゴヰン〕【聖護院】

京都市左京区にある本山修験宗総本山。もと天台宗寺門派三門跡の一。円珍の開創と伝える。寛治4年(1090)白河上皇の勅願により増誉が中興し、現寺号に改称。のち後白河法皇の皇子静恵法親王が入寺して、宮門跡となり、園城寺長吏・熊野三山別当職を兼ねる。室町時代から天台宗修験道山伏を統轄。昭和37年(1962)本山修験宗を設立。
京都市左京区の地名。聖護院がある。

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精選版 日本国語大辞典 「聖護院」の意味・読み・例文・類語

しょうご‐いんシャウゴヰン【聖護院】

  1. [ 一 ] 京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗の総本山。もと天台宗寺門派の大本山で、三門跡の一つ。円珍の開基と伝えられ、はじめは常光院と称した。寛治年間(一〇八七‐九四)園城寺(おんじょうじ)の増誉が入山して現名に改めた。のち後白河天皇の皇子静恵(じょうえ)法親王が入山して門跡となり、以来住持は園城寺の長吏と熊野三山の検校とを兼ねた。
  2. [ 二 ] 京都市左京区の地名。聖護院、熊野神社などがある。

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日本歴史地名大系 「聖護院」の解説

聖護院
しようごいん

[現在地名]左京区聖護院中町

黒谷くろだにの東、平安神宮の北に位置する。円珍の草創になる天台寺門宗の門跡寺院であり、本山修験宗の大本山を兼ねる。本尊不動明王聖護院旧仮皇居として国の史跡に指定されている。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔創始〕

寺伝は、円珍の没後、増命・勢祐・智静・最円・静覚と法脈を継承、増誉の代に一寺を創したのが聖護院の創始と伝える。応仁元年(一四六七)二月七日の熊野三所権現順礼先達職之事(若王子神社文書)に「御宇白河院、寛治四年正月廿二日、熊野三山御幸之時、以聖護院門跡元祖法務前大僧正増誉為御先達、還幸之後、依三山引導之賞検校職、修験道之先達・検校之両職是濫觴也」とあり、寛治四年(一〇九〇)一月の白河上皇熊野詣に増誉が先達し、その賞として熊野三山検校職に任ぜられ、修験道を統轄したことが知られるが、その法務を営むために白川院を創したのが当院の直接の起りである(諸門跡譜)。次いで二世増智・三世覚忠が入室し、覚忠の時に新たに聖護院と号したという(坊目誌)。次いで四世門主に後白河天皇の皇子静恵法親王が入ってより宮門跡となり、以後七世尊円法親王以下覚恵・覚助・忠助・順助・恵助と代々法親王が門主として入室した(聖護院記録)

記録上では「兵範記」仁安二年(一一六七)四月二六日条に「参白河法務御房、中御門末聖護院也」とみえるのが早い例で、場所も中御門なかみかど大路の末とすでにほぼ現在地にあたる。寛元三年(一二四五)一二月一八日の禅定寺寄人等申状案(禅定寺文書)には「聖護院御所」とあり、下って応永一二年(一四〇五)には「河東聖護院」とみえる(「教言卿記」同年一一月一五日条)。「太平記」巻一の「儲王御事」には「第四ノ宮モ同御腹ニテゾヲハシケル、是ハ聖護院二品親王ノ御附弟ニテヲハセシカバ、法水ヲ三井ノ流ニ汲」とみえ、後醍醐天皇の第四皇子静尊法親王が一〇世覚助法親王のもと聖護院に入室していたことを記しているが、室町時代に入ると、「去廿日二条殿御息入室聖護院、則(得)度云々、室町殿御弟義観僧正御隠居之替云々、則室町殿御計也、子細何事哉、不(審)、義観僧正ハ若君入室之時片時渡御云々、彼若君ハ准后御弟子分也」と(「大乗院寺社雑事記」寛正三年一二月二六日条)、足利将軍家にゆかりのある僧の入室するところとなり、応永一九年一月二九日には「今日御所様聖護院ヘ渡御」と足利義持も当院を訪れている(山科家礼記)

〔焼亡・移転と再興〕

しかし応仁二年八月五日の兵乱によって「東西兵破聖護院及諸教寺」と焼失(碧山日録)

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改訂新版 世界大百科事典 「聖護院」の意味・わかりやすい解説

聖護院 (しょうごいん)

京都市左京区にある本山修験宗の大本山。もと天台宗寺門派の大本山で円満院,実相院とともに三門跡の一つ。本尊は不動明王。智証大師円珍の開創と伝えられる。はじめ常光院と称したが,11世紀末に増誉が入寺して聖護院と改称した。増誉は1090年(寛治4)に白河上皇の熊野参詣に先達をつとめ,その功として熊野三山別当に任ぜられ,以後,当寺は修験道と深い関係をもった。平安末期,後白河天皇の皇子静恵法親王が入寺して以後,代々法親王が入寺してあとをつぐことが多くなり,当寺門跡が三井寺長吏と熊野三山別当を兼ねるようになった。近世の寺領1430石。1613年(慶長18)には江戸幕府から修験道本山法頭に指定され,以後,本山派山伏を支配して近世を推移し,寺運は隆盛をきわめた。寺地はしばしば移転し,応仁の乱で焼けてから戦国時代には洛北岩倉の長谷(ながたに)に,また近世初期には上京の烏丸上立売(からすまかみたちうり)にあり,1676年(延宝4)から現在地に移った。いま,主要な堂舎に宸殿,本堂,書院,小書院,北殿,庫裏,表門などがあるが,庫裏のほかは,この移転のときの建築である。なお,本堂安置の不動明王立像(藤原時代)と智証大師座像(1143年)は重要文化財である。また書院は小書院とともに禁裏の御殿を下賜されて移建したもので,江戸前期の書院建築の好例として重要文化財。皇室との由縁は深く,江戸後期,禁裏炎上のとき,光格・孝明2帝の仮宮となり,いま聖護院旧仮皇居として史跡になっている。また8月1日の山伏行列は,この日,全国から集まった数千の山伏が大峰入りをするため,旗をたて,法螺貝を吹きながら,みやこ大路を当寺から京都駅までねり歩くもので,当寺の名物となっている。なお,土地の名産にかつて聖護院大根があり,千枚漬などに用いられたが,現在では上賀茂や滋賀県下で栽培されている。
本山派
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「聖護院」の意味・わかりやすい解説

聖護院
しょうごいん

京都市左京区聖護院中町にある天台宗系の単立寺院で、本山修験(ほんざんしゅげん)宗の総本山でもある。もと天台宗寺門派本山で天台三門跡(もんぜき)の一つ。本尊は不動明王。智証(ちしょう)大師円珍(えんちん)の創建。初めは常光院と称したが、11世紀の初めころ白河(しらかわ)上皇の熊野三山参詣の折に先達(せんだつ)をつとめた増誉(ぞうよ)大僧正が上皇の勅願により中興し、聖護院と寺名を改めた。増誉僧正のあと、4代目の門主に後白河(ごしらかわ)天皇の皇子静恵法親王(じょうえほっしんのう)がなってからは宮門跡となり、以後歴代親王が継承、園城寺(おんじょうじ)長吏、熊野三山別当職を兼ね、1613年(慶長18)天台修験道本山派の本山となる。応仁(おうにん)の乱の兵火や火災に再三あって焼失、愛宕(おたぎ)郡岩倉の長谷(ながたに)や烏丸上立売(からすまかみたちうり)(現上京(かみぎょう)区)にも移ったが、1676年(延宝4)現在地に再建された。本堂、宸殿(しんでん)、表門、書院、玄門などはそのとき建築されたもので、書院は江戸時代初期の書院例を示すものとして国の重要文化財に指定されている。1788年(天明8)、1854年(安政1)の二度の皇居火災のおり、聖護院が仮皇居となり、また維新後は山階(やましな)宮の在所であったため、遺品も数多い。木造不動明王立像2体、木造智証大師坐像(ざぞう)、光格(こうかく)天皇宸翰(しんかん)神変大菩薩(だいぼさつ)号勅書、後陽成院(ごようぜいいん)宸翰御消息、絹本着色熊野曼荼羅(まんだら)図など国重要文化財も数多い。毎年8月1日は奈良吉野の大峰(おおみね)に峰入りをする数千の修験者(しゅげんじゃ)の行列で有名。東隣に塔頭(たっちゅう)積善院(しゃくぜんいん)がある。

[中山清田]

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百科事典マイペディア 「聖護院」の意味・わかりやすい解説

聖護院【しょうごいん】

京都市左京区にある本山修験宗(もと天台宗寺門派)の本山。本尊不動明王。円珍の開基で,平安末期から法親王が入って,園城(おんじよう)寺長吏と熊野三山別当を兼ねた。本山派山伏を統轄して,当山派(三宝院)とともに修験(しゅげん)道を二分した。→醍醐寺
→関連項目新熊野神社銅脈

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「聖護院」の解説

聖護院
しょうごいん

京都市左京区にある本山修験宗の総本山。寺伝によれば,役小角(えんのおづの)によって洛北岩倉に開かれ,円珍の相続で天台宗寺門派となるというが,1090年(寛治4)園城寺の増誉(ぞうよ)が白河上皇から初代熊野三山検校(けんぎょう)に任じられ,法務を営むために白川院(聖護院)の創建を許されたことに始まる。後白河天皇皇子の静恵(じょうえ)法親王が入寺して門跡寺院となり,三山検校を兼ねた。室町時代には将軍家との関係も深く,門跡道興の活躍により天台系修験教団の本山派が形成され,本山となった。江戸時代は修験道本山派法頭として同派の諸国山伏を統轄し,寺領1403石があった。1872年(明治5)の修験道禁止令により天台宗寺門派に編入され,1946年(昭和21)修験宗として独立。境内は国史跡。

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旺文社日本史事典 三訂版 「聖護院」の解説

聖護院
しょうごいん

京都市左京区聖護院町にある寺
もと天台宗寺門派の大本山。三門跡の一つで,円珍の開基。1090年白河上皇の熊野参詣のとき,増誉 (ぞうよ) が先達をうけたまわり,本寺を修験道の鎮守とした。現在独立して修験宗 (しゆげんしゆう) の本山。

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デジタル大辞泉プラス 「聖護院」の解説

聖護院

京都府京都市左京区にある寺院。もと天台宗。本山修験宗総本山。本尊は不動明王。円珍の開創と伝わる。常光院と称したが、11世紀末に改称。室町期には修験道と深く関わり、1962年に本山修験宗を設立。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「聖護院」の意味・わかりやすい解説

聖護院
しょうごいん

京都市左京区聖護院中町にある修験宗の本山。もと天台宗に属していた。智証大師の開基。本尊は不動明王。慶長 18 (1613) 年に修験道の本山として山伏を直管した。寺宝が多い。

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世界大百科事典(旧版)内の聖護院の言及

【本山派】より

…京都の聖護(しようご)院によって統轄された天台系の修験教団。修験道の開祖を役行者(えんのぎようじや),派祖を円珍(智証大師)とし,宗派の基礎は平安末期に固められた。…

※「聖護院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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