日本大百科全書(ニッポニカ) 「生野銀山元文一揆」の意味・わかりやすい解説
生野銀山元文一揆
いくのぎんざんげんぶんいっき
1738年(元文3)12月16日に但馬(たじま)国(兵庫県)生野銀山の下財(げざい)(鉱夫)らが起こした一揆。一揆は銅の買上げ値段の引上げと扶持米(ふちまい)の増額を要求して加奉(町役人)赤井治左衛門(じざえもん)宅を打毀(うちこわ)し、代官所に強訴(ごうそ)した。参加人員は700~800人といわれる。一揆の直接的原因は、銅仲買いでもある赤井の安値買上げ計画にあるが、その背景には幕府の政策が存在する。すなわち、この年4月に幕府は長崎への廻銅(かいどう)を確保するために大坂に銅座を設置し、全国の銅の廻送を命じたので銅値段が急激に下落したのである。一揆は銀100貫匁と米160石の救恤(きゅうじゅつ)を行うことを約束させて22日には鎮まった。この一揆の勝利に刺激されて、同年12月29日には、同じ生野代官所の支配を受ける朝来(あさご)郡の村々から1万人が年貢減免などを求めて強訴するという新たな闘争が発生している。
[保坂 智]