江戸中期の儒学者。水戸藩士。字は子先,通称は覚兵衛,澹泊斎また老圃と号し,致仕後老牛と改めた。祖父正信のとき初代藩主徳川頼房に仕え,父貞吉は儒学を好み,詩文をよくした。1665年(寛文5)から朱舜水に師事。70年大番組で200石,75年には小納戸役に進む。83年彰考館編修,92年(元禄5)300石,翌年同館総裁に任ぜられ,2代藩主徳川光圀を助けて《大日本史》の編纂に主導的役割を果たした。1714年(正徳4)総裁を辞したが,その後も本紀・列伝の校訂作業を続け,16年(享保1)から5年間は〈論賛〉の執筆に当たった。33年致仕したが,なおも校訂を続け,その完了直後に没した。学者として謙虚な態度を持し,新井白石,室鳩巣,荻生徂徠らと親交を結んだ。博識でとくに史学に長じ,《澹泊斎文集》《澹泊先生史論》《西山遺事》などの著書がある。
執筆者:鈴木 暎一
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(鈴木暎一)
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江戸中期の歴史家、水戸藩士。名は覚、字(あざな)は子先(しせん)、通称覚兵衛。澹泊(斎)は号。晩年は老圃(ろうほ)、老牛、碧於亭(へきおてい)とも号した。水戸藩主徳川光圀(みつくに)が招いた明(みん)の儒学者朱舜水(しゅしゅんすい)の門人。1683年(天和3)彰考館編修となり『大日本史』の編纂(へんさん)に従事すること54年に及ぶ。その間1693年(元禄6)には彰考館総裁となった。その生涯の大部分は、佐々十竹(ささじゅうちく)とともに光圀を助けて修史事業に捧(ささ)げられた。後世の創作『水戸黄門漫遊記』の格さんのモデルにされた。禄高(ろくだか)は300石。おもな著書に『大日本史論賛』『烈祖成績』『西山遺事』『湖亭渉筆』『朱文恭遺事』『澹泊斎文集』『澹泊史論』などがある。墓は水戸藩士の常磐原(ときわばら)共有墓地(水戸市末広町)にある。
[瀬谷義彦]
1656.11.13~1737.12.10
江戸前・中期の儒学者。常陸国水戸藩士。父は貞吉。名は覚,字は子先,通称は覚兵衛,澹泊斎・老圃(ろうほ)と号した。祖父以来水戸藩に仕え,水戸藩の賓客であった明の遺臣朱舜水(しゅしゅんすい)に師事して儒学を学ぶ。1683年(天和3)彰考館編修,93年(元禄6)同総裁となり,2代藩主徳川光圀(みつくに)のもとで「大日本史」編纂の中心的役割をはたし,また「論賛」を執筆。致仕後も紀伝稿本の筆削補訂に従事。新井白石・室鳩巣(むろきゅうそう)・荻生徂徠(おぎゅうそらい)らと親交があり,前期水戸学を代表する学者。著書「西山遺事」「烈祖成績」「澹泊史論」「澹泊斎文集」。
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…また当時の庶民間の旅行ブームや十返舎一九の《東海道中膝栗毛》にならって,光圀の諸国漫遊譚が誕生した。光圀による3回もの蝦夷地渡航や,《大日本史》編纂のため,安積澹泊(あさかたんぱく)(通称覚兵衛。講釈で渥美格之丞。…
※「安積澹泊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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