江戸浄瑠璃の一流派。江戸時代の初め,京都から江戸に下った浄瑠璃語り薩摩浄雲の流れをくむ硬派の浄瑠璃。文献では薩摩外記大掾藤原直政の門弟薩摩文五郎が大薩摩主膳太夫と改名して享保初年(1720年ころ)に創始したといわれる。享保~宝暦期(18世紀中ころ)に江戸歌舞伎の市川流荒事の伴奏音楽として全盛期をむかえたが,中期以後しだいに,長唄や豊後節系浄瑠璃に圧倒されて衰退,1826年(文政9),家元権が4世杵屋(きねや)三郎助(のち10世六左衛門)にあずけられ,さらに68年(明治1)にはその家元権が正式に3世杵屋勘五郎に譲与されて,長唄に吸収された。したがって長唄には《綱館》《鞍馬山》など大薩摩節の旋律を使った作品が多く残されている。現在,歌舞伎の時代だんまり,深山幽谷,あるいは大寺院の場面などの幕明きに浅葱幕(あさぎまく)の外で唄,三味線で演奏する情景描写の豪快な曲を〈大薩摩〉とよんでいるが,これは旋律に大薩摩節の手を利用しただけで,大薩摩節との直接の関係はない。
執筆者:植田 隆之助
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江戸浄瑠璃(じょうるり)の種目名。最初に大薩摩を名のった人物については諸説あるが、一般には浄瑠璃語り薩摩浄雲の流れをくむ初世大薩摩主膳太夫(しゅぜんだゆう)(1695―1759)が、1716年(享保1)ごろ創始した流派といわれている。豪快な曲節を特色とし、江戸歌舞伎(かぶき)の市川流荒事(あらごと)の伴奏を勤め、2世および4世市川団十郎の荒事とともに、享保(きょうほう)~宝暦(ほうれき)(1716~64)ごろその全盛期を迎えた。とくに初世主膳太夫が2世市川団十郎の『矢の根』の伴奏を勤めて大好評を博したことは名高い。しかし、荒事がしだいに人気を失い、豊後節(ぶんごぶし)系浄瑠璃(常磐津節(ときわずぶし)、富本節(とみもとぶし)など)や長唄(ながうた)が盛んになると大薩摩節は衰退。加えて、その三味線は長唄の三味線方が勤めていた関係もあって、幕末には長唄に吸収され、1868年(明治1)正式にその家元権が長唄の3世杵屋勘五郎に譲渡された。それ以後、長唄に大薩摩節の旋律を積極的に取り入れた大薩摩物とよばれる曲が数多く作曲されるようになった。
なお、歌舞伎の「時代だんまり」や、大寺院、深山幽谷の場面の幕開きに、浅黄幕の外に長唄の唄方と三味線方が現れて豪快な演奏を行うのを大薩摩とよんでいるが、これは大薩摩節の旋律を借用した長唄であって、浄瑠璃としての大薩摩節とは直接の関係はない。
[植田隆之助]
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…また桐長桐(きりちようきり)座の脇狂言〈都踊〉を作曲したという。大薩摩節の三味線も弾いたといわれているが,病身のため弟に喜三郎の名前をゆずるとともに宗家の家督もゆずり,六左衛門と改名したというが確証はない。(3)9代(?‐1819(文政2)) 3世田中伝左衛門の次男。…
…この時期の長唄唄方には坂田兵四郎,初世松島庄五郎,初世吉住小三郎,三味線方には7代目杵屋喜三郎,初世杵屋新右衛門,初世杵屋弥三郎,初世杵屋忠次郎,囃子方には宇野長七などがいる。明和期(1764‐72)になると,一中節の太夫から転向した初世富士田吉次(治)によって長唄に浄瑠璃の曲節を加えた唄浄瑠璃(例《吉原雀(よしわらすずめ)》《安宅松(あたかのまつ)》)が創始されたり,大薩摩節(おおざつまぶし)との掛合(《鞭桜宇佐幣(むちざくらうさのみてぐら)》)も開始されて,長唄に新機軸を生みだした。また,この時期には9代目市村羽左衛門など立役(男役)にも舞踊の名手が現れ,舞踊は女形の独占芸という慣行が打破された結果,男性的な曲も生まれた。…
…また歌舞伎とともに発達した歌が,長唄である。長唄は,江戸時代後期には大薩摩節(おおざつまぶし)という浄瑠璃を併合したり,お座敷長唄という歌舞伎から離れた演奏会長唄ともいうべきものを生じたりして,芸域を拡張した。また,江戸時代初期に八橋検校という盲人が筑紫流箏曲をさらに近代化して箏曲として大成し,当道(とうどう)という盲人の組織にのせて普及した。…
※「大薩摩節」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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