日本大百科全書(ニッポニカ) 「打毀」の意味・わかりやすい解説
打毀
うちこわし
家宅、家財、道具類を集団で破壊する、江戸時代の農民、都市民のもっとも激しい闘争形態。江戸時代の初頭には武力を用いる反乱もみられたが、兵農分離が完成する一方で百姓訴訟法が制度化されると、法に基づく訴願が広がり始めた。しかし、その方法によって目的が達せられないときは、他領に逃げたり、村役人が訴訟の手順を無視して上級の権力に訴える代表越訴(おっそ)の手段がとられた。村役人の代表越訴は、やがて中下層の農民が加わってきて惣百姓(そうびゃくしょう)の強訴(ごうそ)に変わった。集団的な行動である強訴は、領主に負担軽減を要求するだけに終わらず、打毀を伴うことが多かった。早い例としては1686年(貞享3)信濃(しなの)松本藩一揆(いっき)(加助(かすけ)騒動)に小規模な打毀が現れたが、1712年(正徳2)加賀大聖寺(だいしょうじ)藩一揆は、全藩規模の打毀を伴う強訴となった。以後、強訴と打毀が一体になった百姓一揆が多くなる。
打毀は領主権力に向けられるものではなく、一揆に同意しない村役人、領主と結託したり内通した者、高利の金融で百姓をとりつぶしたり買占めで物価をつり上げた者などに向けられた。村方でも行われたが、城下町へ押し入って打毀すこともあった。打毀は、農民が悪人と判定した者に対して、領主の力を借りずに自らの手で行う激しい制裁行為であり、水争いなどの際にも類似のものがみられた。この行動は種々の道具を用いて行われ、生活、生産の諸手段を徹底的に破壊したが、家屋そのものを倒壊させることはほとんどなく、放火が行われたこともなかった。
農民の打毀に対し、都市では、小商職人や雑業者が米の買占めや価格高騰に怒って特権的な商人宅を襲う、米騒動の性質をもつ打毀が起こった。早い例としては1713年(正徳3)長崎、31年(享保16)飛騨(ひだ)高山の打毀があるが、大規模なものは33年1月に江戸で起こった米問屋高間伝兵衛(たかまでんべえ)宅の打毀が最初である。以後、凶作、飢饉(ききん)の年には三都や城下町に頻発するようになり、各地の港町や在町(ざいまち)でもみられるようになった。都市民の打毀も富の独占に対する自らの手による制裁であったが、飢饉で米価が異常な高騰をみせる時期には、広域にわたって連鎖的に起こるのが特徴であった。ことに1787年(天明7)には全国的な広さで都市打毀が起こり、江戸は無政府状態になるほどであった。天保(てんぽう)年間(1830~44)、慶応(けいおう)年間(1865~68)にも打毀が激化した。また在町で起こる打毀では、農民と都市民が相呼応する形になった。
[深谷克己]
『林基著『百姓一揆の伝統』正続(1955、71・新評論社)』▽『深谷克己著『百姓一揆の歴史的構造』(1979・校倉書房)』▽『佐々木潤之介著『世直し』(岩波新書)』