田村 吉永
タムラ ヨシナガ
大正・昭和期の歴史学者 梅光女学院大学文学部教授。
- 生年
- 明治26(1893)年2月7日
- 没年
- 昭和52(1977)年8月17日
- 出生地
- 奈良県吉野郡白銀村(現・西吉野村)
- 学歴〔年〕
- 奈良県立師範第二部〔明治45年〕卒
- 学位〔年〕
- 文学博士(関西大学)〔昭和35年〕
- 経歴
- 奈良県内の中学校などで教師を務めながら大和国を中心とする日本古代史を研究し、大正12年に大和史学会、昭和6年に大和国史会を創設。9年には歴史研究誌「大和誌」を創刊。10年近畿日本鉄道株式会社の史料編纂室に就職し、19年に退職した後は嘱託として同編纂室に勤務した。35年「我国に於ける中国式都制の研究」「大和条里制の研究」で関西大学から博士号を授けられ、39年に梅光女学院短期大学講師となり、次いで同教授。42年には梅光女学院大学文学部教授に就任し、49年まで在任した。条里・条坊制や藤原京・平城京の研究で知られ、著書は他にも「大和条里制と条坊制の研究」「飛鳥京藤原京考証」などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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田村吉永 たむら-よしなが
1893-1977 大正-昭和時代の日本史学者。
明治26年2月7日生まれ。生地の奈良県で中学校教員などをつとめるかたわら,歴史研究にはげむ。大正12年大和史学会,昭和6年大和国史会を創設。9年雑誌「大和志」を発刊する。42年梅光女学院大教授。昭和52年8月17日死去。84歳。奈良師範卒。著作に「天誅(てんちゅう)組の研究」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内の田村吉永の言及
【飛鳥岡本宮】より
…ただし,壬申の乱後,天武天皇は,後飛鳥岡本宮の南に,[飛鳥浄御原宮](あすかきよみはらのみや)を営んでいるから,一部分の建物の焼失にとどまったらしい。飛鳥岡本宮の所在地については,《類聚三代格》に引く神護景雲1年(767)12月1日の太政官符にみえる岡本田の記載から,大官大寺(奈良県高市郡明日香村小山)のすぐ東の地とする田村吉永の説が通説化している。しかし,飛鳥岡本宮の宮号の由来となった飛鳥岡を手がかりに考えると,飛鳥坐神社から岡寺にかけての丘陵こそが飛鳥岡であり,飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)伝承地のすぐ北ないし北東の一帯がクローズアップされてくる。…
【飛鳥浄御原宮】より
…現在では,〈石神〉地域が再調査され庭園遺構であること,旧飛鳥小学校の南からは漏刻(ろうこく)の遺構が検出され,両者がともに密接な関係にあることが判明し,その時期も7世紀中葉すぎで,飛鳥浄御原宮よりも少し古い時期のものである。田村吉永は,《飛鳥京藤原京考証》(1965)で,《類聚三代格》に引く神護景雲1年(767)12月1日の太政官符に,岡本田がみえ,それを大官大寺塔跡の東方につづく地域に比定した。そして,岡本田の存在から岡本宮をこの地に想定し,飛鳥浄御原宮を,大官大寺と山田道との地域に求めた。…
※「田村吉永」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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