田野江
たのえ
宮下の北にあり、東部は海に臨む。近世は富江村の枝郷。正徳三年(一七一三)富江の田野江崎沖に唐船四〇人乗一艘が漂着、元文五年(一七四〇)に唐船三八人乗船が流れ着いている(「唐船朝鮮船琉球船漂着并沖合見掛調帳」五島編年史)。文化二年(一八〇五)富江五島家六代の運竜は肥後天草から上田定胤を招いて当地の宝性院裏手で開釜、嘉永年間(一八四八―五四)まで皿・鉢・花瓶・香炉などを焼いた。これら富江焼の遺品は瑞雲寺などに所蔵される。文化一〇年七月、伊能忠敬の一行は「富江本村」をはじめ、枝の田野江村・松尾・横加倉・山手・黒瀬村・山下などを測量(伊能忠敬測量日記)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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