富江村(読み)とみえむら

日本歴史地名大系 「富江村」の解説

富江村
とみえむら

[現在地名]富江町富江郷とみえごうなど

現富江町域の東部に位置し、富江浦に臨む。南に只狩ただかり山がある。女亀めがめの南の山崎やまさきに倭寇の拠点とされる勘次かんじヶ城があった。宇久氏の勢力が及んだとき宇久玄雅が御駒の方とともに当地に居住していたという。慶長八年(一六〇三)曹洞宗宝性ほうしよう院、真言宗妙泉みようせん寺が創建され、同一六年には曹洞宗の瑞雲ずいうん寺が建立されている。古くは戸ノ浦・戸ノ島・富ノ島などともよばれたという。江戸時代は海に張出した半島状のほぼ全域を村域とし、複数の集落を含む。初め福江藩領で、富江掛に属した。慶長国絵図に「戸ノ島」とみえ、高一千三五〇石余。寛永一五年(一六三八)深江ふかえ(福江の古称)に福江藩政庁石田いしだ陣屋(現福江市)が完成したのを祝って佳名の富江に改めたとされる(五島編年史)。万治二年(一六五九)惣高積之帳に「富江領」として正保国絵図の高一千一九石余、今高一千五五九石余とあり、また「富江地下村」として正保国絵図の高六一三石余、今高九八一石余。万治年間とされる五島一円惣高帳では富江村として高九八一石余、うち蔵入地四九四石余・給地四一五石余・寺社領七一石余。

寛文元年(一六六一)富江五島領となり、村内に五島氏の陣屋が置かれた。


富江村
とみえむら

[現在地名]溝口町富江

大山西麓の福永ふくなが原西端、白水しらみ川上流右岸に位置し、西は大倉おおくら村。山林原野の面積が広く、畑地に比べて水田が比較的少ない。大山領で中組に属した。初め小浅おあさ村と称し、郷帳類などにも同名で記されるが、文化―文政(一八〇四―三〇)頃に用水が乏しいことを理由に領内限りで富江村の呼称を許された(日野郡史)。享保四年(一七一九)の徳川氏朱印状では高一三七石余(鳥取県史)。宝暦一二年(一七六二)の人数一九一(日野郡史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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