日本歴史地名大系 「甲府城跡」の解説
甲府城跡
こうふじようあと
甲府市街地の中心に位置する、山梨県内に残る唯一の近世城郭。甲斐府中城が江戸時代の正式な名称であるが、
〔築城の始め〕
天正一〇年(一五八二)六月の本能寺の変後、当時三河・遠江・駿河を領していた徳川家康は、甲斐の争奪をめぐる相模小田原の北条氏との抗争を経て同年末には甲斐・信濃を併せいわゆる五ヵ国領有時代に入る。甲府城の築城の始めについては諸説があるが、年未詳四月二五日付の桜井信忠以下徳川家四奉行の連署証文写(社記)を同一一年のものとみて、「於当社八幡相勉御番社人衆、自五月二日同十一日まて十日御やといに候、於府中御城普請可被致之旨、可被相触者也」とあるのは、家康が五ヵ国領有の一環として甲斐経略上の必要から築城を計画、城代平岩親吉に命じて
〔加藤氏・浅野氏時代の築城〕
天正一八年小田原北条氏滅亡の後、七月一三日豊臣秀吉は家康を北条氏の旧領関東に移し、これまで家康が領国支配を確立していた五ヵ国は秀吉の諸将に分与された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報