浅野長政(読み)アサノナガマサ

デジタル大辞泉 「浅野長政」の意味・読み・例文・類語

あさの‐ながまさ【浅野長政】

[1547~1611]安土桃山時代の武将。はじめ織田信長に仕え、のち豊臣秀吉に重用されて甲斐かい22万石を領し、五奉行の一人となる。関ヶ原の戦いには徳川方に属した。

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精選版 日本国語大辞典 「浅野長政」の意味・読み・例文・類語

あさの‐ながまさ【浅野長政】

  1. 安土桃山時代の大名。近江の人。甲斐国領主。豊臣家五奉行の一人。関ケ原の戦いでは徳川方に加勢した。法名伝正院功山道中。天文一六~慶長一六年(一五四七‐一六一一

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朝日日本歴史人物事典 「浅野長政」の解説

浅野長政

没年:慶長16.4.7(1611.5.19)
生年:天文16(1547)
戦国・江戸前期の武将。通称は弥兵衛尉,名ははじめ長吉。尾張国春日井郡北野の安井弥兵衛尉重継の長男として生まれたが,母の兄に当たる浅野又右衛門長勝に男子がなかったため,長勝の養女だったややと結婚,浅野家を継いだ。長勝のもうひとりの養女が秀吉の妻となったねねで,秀吉と長政は相婿の間柄となる。はじめ織田信長に仕えたが,まもなく秀吉に仕えるようになり,天正1(1573)年,秀吉が浅井氏滅亡後その遺領を与えられたとき,近江で120石の知行を与えられている。同10年(11,12年説もある)8月,杉原家次と共に京都奉行を命ぜられ,家次が病気になって前田玄以と交代したあと,長政,玄以のふたりが禁裏御領や門跡領などの複雑な問題を処理し,また同年,太閤検地のはじまりとされる山城国検地の奉行も務めており,秀吉の内政面を裏方で支える存在であった。同11年の賤ケ岳の戦後,近江の甲賀・栗太2郡の内に2万300石を与えられ,翌年,近江坂本城と大津城を預けられた。同15年には若狭一国8万石を与えられて小浜城主となり,翌16年には従五位下・弾正少弼に叙任された。文禄の役では,肥前名護屋城の普請を分担し,また軍監として渡海。このとき同じく軍監として渡海していた石田三成と対立し,以後,三成とは不和になった。文禄2(1593)年,甲斐で22万5000石を与えられ,甲斐府中城主となったが,このとき家督相続の意味もこめて子幸長に16万石を与えている。慶長3(1598)年,いわゆる五奉行となったが,徳川家康囲碁を通して親交があったことなどから増田長盛の讒訴によって甲斐に閉居させられ,関ケ原の戦のときには,子幸長と共に東軍に属した。民政手腕にすぐれ,秀吉時代の播磨の領民や,甲斐の領民からその遺徳を慕われた。また囲碁を特に好み,しばしば共に盤を囲んだ家康は長政没後,囲碁を絶ったと伝えられる。

(小和田哲男)

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改訂新版 世界大百科事典 「浅野長政」の意味・わかりやすい解説

浅野長政 (あさのながまさ)
生没年:1547-1611(天文16-慶長16)

安土桃山時代の武将。初名長吉。弾正少弼。初め安井氏。浅野長勝の養子となり織田信長に仕えて羽柴(豊臣)秀吉に付属され,秀吉の大名化とともに領知を増し,1580年(天正8)播磨揖東郡で4600石,その後しばしば加増,秀吉の政権獲得後の83年には京都の奉行となり近江坂本で2万0300石,そしてこれ以後豊臣氏蔵入地の代官を兼ね,87年若狭一国,93年(文禄2)甲斐一国を領し,宇都宮国綱,伊達政宗などを与力とした。1590年小田原征伐では岩槻など後北条氏の支城を攻め,奥羽を検地,92年には肥前名護屋の陣営で秀吉の朝鮮渡海を諫止した。そして秀吉の晩年には秀頼擁護のため五奉行の一員となったが,秀吉没後徳川家康と石田三成との政争に際し,三成らに謀られて失脚,武蔵府中に蟄居(ちつきよ)し,1606年(慶長11)常陸のうちで5万石を与えられた。長政は姻戚出身の奉行として豊臣氏に信任されたが,その立場は前田利家や徳川家康に近く,石田三成や増田長盛らの集権化を志向する吏僚とは異なっていた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「浅野長政」の意味・わかりやすい解説

浅野長政
あさのながまさ
(1547―1611)

安土(あづち)桃山時代の武将。初名長吉(ながよし)(1598年8月から1599年閏(うるう)3月の間に長政と改名)、実父安井重継(しげつぐ)、母は浅野長詮(ながあきら)の女(むすめ)という。尾張(おわり)国(愛知県)春日井(かすがい)郡北野で生まれる。織田信長の弓衆浅野長勝の養子。長勝養女で後の豊臣(とよとみ)秀吉夫人杉原(すぎはら)氏ね(俗称ねね)とは義姉弟。信長に仕え、のち秀吉に属し、各地に転戦。また奉行(ぶぎょう)として兵糧、蔵米(くらまい)のことをつかさどり、1582年(天正10)8月、杉原家次とともに京都奉行。1583年近江(おうみ)大津、坂本両城で2万0300石、1587年若狭小浜(わかさおばま)城主。文禄(ぶんろく)の役に軍監として渡海、1593年(文禄2)甲斐(かい)(山梨県)22万石に移封、翌年五奉行の一人となる。関ヶ原の戦いには東軍方に参加。江戸にて没し、高野山悉地院(こうやさんしっちいん)に葬送された。法号は功山道忠伝正院。

[奥野高広]

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百科事典マイペディア 「浅野長政」の意味・わかりやすい解説

浅野長政【あさのながまさ】

安土桃山時代の武将。父は安井重継。浅野長勝の養子となり,織田信長に仕えた。豊臣秀吉とは相婿(あいむこ)の関係で重用され五奉行の一員となる。1587年若狭小浜(わかさおばま)の城主,1593年甲斐(かい)一国を与えられる。秀吉の死後隠居したが,関ヶ原の戦には徳川方に属して出陣。
→関連項目浅野氏

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「浅野長政」の意味・わかりやすい解説

浅野長政
あさのながまさ

[生]天文16(1547).尾張
[没]慶長16(1611).4.7. 江戸
安土桃山時代の武将。尾張の安井重継の子。幼名は長吉,のち弥兵衛。浅野長勝の養嗣子となる。初め織田信長に仕え,豊臣秀吉とは相婿の関係にあり信任され豊臣家五奉行の筆頭となる。天正 15 (1587) 年若狭小浜城主。同 16年従五位下弾正少弼。文禄の役 (→文禄・慶長の役 ) に軍監として渡鮮し,帰朝後の文禄2 (93) 年甲斐府中城 22万 5000石に増封。秀吉の死後は家督を子幸長に譲り,武蔵国府に隠居。関ヶ原の戦いには幸長とともに徳川家康に属し,みずからは秀忠に従って出陣した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「浅野長政」の解説

浅野長政 あさの-ながまさ

1547-1611 織豊-江戸時代前期の武将,大名。
天文(てんぶん)16年生まれ。織田信長,豊臣秀吉につかえ,各地を転戦。天正(てんしょう)15年若狭(わかさ)(福井県)小浜城主。豊臣政権下で五奉行の一員。関ケ原の戦いでは徳川方に属し,功により子の幸長(よしなが)に紀伊和歌山37万6500石があたえられ,長政は隠居して慶長11年常陸(ひたち)(茨城県)真壁藩主浅野家初代となった。5万石。慶長16年4月7日死去。65歳。本姓は安井。初名は長吉(ながよし)。
【格言など】戦わずして勝利を得るを,誠の勝利と存ずるなり

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「浅野長政」の解説

浅野長政
あさのながまさ

1547~1611.4.7

織豊期の武将。尾張国春日井の安井重継の子。通称は弥兵衛尉。初名は長吉(ながよし)。弾正少弼。伯父浅野長勝の養子となり織田信長に仕える。1573年(天正元)以来豊臣秀吉麾下として勢力を伸張し,奉行として検地・軍事などを担った。93年(文禄2)甲斐国22万5000石(1万石は公領)を子の幸長(よしなが)とともに得たが,関白秀次事件の影響で一時政治の中枢から離れた。98年(慶長3)五奉行の1人となったが,翌年引退。関ケ原の戦では東軍に属した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「浅野長政」の解説

浅野長政
あさのながまさ

1547〜1611
安土桃山時代の武将。豊臣家五奉行の一人
尾張(愛知県)に生まれ,織田信長・豊臣秀吉に仕えて若狭(福井県)小浜城主となった。文禄の役にも軍監として出陣。のち隠居したが,関ケ原の戦い(1600)には東軍に参加し,その功で和歌山城主となった。子孫はのち広島藩主となった。

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世界大百科事典(旧版)内の浅野長政の言及

【五奉行】より

…1598年(慶長3)7月ごろ豊臣秀吉の死を前にして設置された。前田玄以浅野長政増田(ました)長盛石田三成長束(なづか)正家の五名で構成される。豊臣氏の奉行は政権の樹立以来存在し,初期の奉行には桑原貞也,杉原家次,細井方成,石田三也(成),増田長盛,大谷吉継,伊藤秀盛など多くの人名を挙げることができる。…

※「浅野長政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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