畑原村(読み)はたはらむら

日本歴史地名大系 「畑原村」の解説

畑原村
はたはらむら

[現在地名]灘区赤坂通あかさかどおり一―四丁目・畑原通はたはらどおり一―五丁目・天城通あまぎどおり一―五丁目・福住通ふくずみどおり一―四丁目・中原通なかはらどおり一―四丁目・倉石通くらいしどおり一―四丁目・水道筋すいどうすじ二―五丁目・畑原

鍛冶屋かじや村の北、沖積地に位置する。中世都賀とが庄内にあり、文明二年(一四七〇)九月一二日の都賀庄公文名地帳(天城文書)には作人として畑原の衛門二郎大夫、長享三年(一四八九)五月吉日の都賀庄夏麦指出(同文書)では源三郎、天文一五年(一五四六)九月吉日の公文名納帳(同文書)では弥二郎・宗清・千代女などがみえる。江戸時代の領主の変遷は鍛冶屋村と同じ。慶長国絵図には畑村とみえ、高一五六石。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では畑原村とあり、高一五五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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