鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]額田町鍛埜
村域を東西に作手中道が通り、乙川の河岸段丘に集落と耕地が立地。東は土村、西は中畑村・須淵村(現岡崎市)、南は高薄村・法味村、北は中保久村と各々山で接する。中世、中山庄に属したという。岩戸(現岡崎市)を本拠とする天野氏一門の支配下になる。天野氏家譜では貞治二年(一三六三)三州竹島合戦で吉良満貞配下に天野左京亮が存在したという。本宿(現岡崎市)浄土宗西山深草派法蔵寺末の医王山正立寺は、往古は天台宗南都東大寺末で天野院林西寺と称し、応永二九年(一四二二)天野孫太郎貞国の開基と伝えている。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]湯河原町鍛冶屋・吉浜
北・西部に大観山などの峰が連なり、同山より東流する新崎川が土肥吉浜村境から東南に流れ、南は土肥堀内村・宮下村と接する。
近世は小田原藩領。正保国絵図に「ヨシハマノ内鍛冶屋」とあり、吉浜村の分村であった。諸役として貞享三年(一六八六)の村明細帳(明治小田原町誌)によれば、御用柿渋・蜜柑を納め、延享四年(一七四七)の村明細帳(柏木文書)には大名が熱海行の際の掃除人足・助人馬、藩主が伊豆行の際の人馬、箱根道作り、根府川関所(現小田原市)の修復、土肥門川村・土肥堀内村とともに真鶴村(現真鶴町)の御林の木材を船積みする際の人足出しなどがあり、鉄砲六、うち村筒四があり、宮上村村筒小頭に属した。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]浅井町鍛冶屋
郷野村の南東に位置。東部山地に発する指南谷川が南西流し左岸集落中央部で草野川に合流する。指南谷川に沿い東の七廻り峠を越えて吉槻村(現坂田郡伊吹町)を結ぶ山道は教如布教の道とも、関ヶ原合戦後石田三成の敗走した道とも伝える。「輿地志略」に「相伝源頼朝大和国宇多郡草野村より鍛冶一人此地に召置かる、今に其子孫多し、草野鎗といへるは此地にて打たる鎗也、百本の内十本は今に此村にありといふ」と記す。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]上野市鍛冶屋
菖蒲池村の南東。下郡への道が通る。猪ノ坂の巨石の山の神の前面から皿形土師器片、東北の猪田村丸尾境の湯栗窯跡から平安初期の須恵器片が出土した。「伊水温故」に「昔一郷トモ鍛冶ヲシテ所業トスル故ニ村ノ名トス」とある。
元禄一〇年(一六九七)新検を改め、本高三一六・六四九石、平高七九二・八石でうち藤堂式部領四三二石。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]出石町鍛冶屋
堀川(現在の出石川)の左岸、奥山川の右岸に位置し、集落・耕地は両川に挟まれた低湿地帯に発達。堀川の対岸東方は出石城下の小人町、奥山川の対岸西方は弘原下村、南西は弘原中村。地内の清水に出石藩主仙石氏の別荘清水御殿があり、野遊の茶屋などに用いられた。このため村内には武家も混住していた。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高一一〇石余。出石封内明細帳では拝領高九七石余・改出高一五石余、これらの内訳は屋敷四石余・麻畑六石余・田方七四石余・畑方二七石余、ほかに古新発高八石余・新発高二升余、家数八一・人数二八一。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]綾部市鍛冶屋町
小西村から中村に越える丘陵の鞍部にあり、小畑四箇の中央にあたる。西は三坂峠を経て報恩寺村(現福知山市)に至る。綾部藩領。「巡察記」は「赤
壌ニ烟草ヲ作ルノ業興ラバ絶テ他国ヲ働キ者無カルベシ」と煙草栽培を勧めている。
村域内に八塚古墳群・三之宮古墳群・野口古墳群がある。また村内佐田の一之宮神社の境内から経塚が発見されて、陶壺・経筒などが出土した。
一之宮神社(祭神伊弉諾命・速玉男命・事解男命)は社伝によれば、「延喜式」神名帳の何鹿郡「佐
神社」とされ、佐陀神社とよんだが、中古熊野神社を境内に勧請してから一之宮神社と改称したという。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]大河内町鍛治
寺前村の東、市川上流域に位置する。鍛冶村とも記される(旧高旧領取調帳など)。慶長国絵図に「かぢや村」とみえる。慶長六年(一六〇一)姫路城主池田輝政により検地が行われている(「記録簿」鍛治区有文書)。領主の変遷は貞享四年(一六八七)までは寺前村と同じ。同年七月旗本の吉富池田領となり、幕末に至る(寛文四年「池田政直知行目録写」池田家文庫、旧高旧領取調帳など)。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]灘区泉通二―四丁目・大内通二―四丁目・岸地通一―三丁目・水道筋一―三丁目
河原村の西、六甲山山麓から海岸に至る沖積地の中央部を占める。中世は都賀庄内にあり、文明元年(一四六九)一一月日の都賀庄寺庵帳(天城文書)にはカチヤと肩書されて末友天王(現素佐男神社)と大日堂がみえる。天文一五年(一五四六)九月吉日の公文名納帳(同文書)には作人として「かち屋」の神三郎が記される。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]知多市日長・新舞子
東西に細長く、村内の西端を西浦街道がかすめる。東に丘陵地と溜池があり、東の大宝寺、西の瑞光寺間に集落が展開。北は森村、他三方は松原村に接する。北粕谷村地内に飛地の勢鎌・勢鎌池がある。「寛文覚書」によれば、概高三一四石余、田一九町四反二畝余、畑(一〇町)七反七畝余、家数五二、人数三二五。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]佐久市大字鍛冶屋
東は千曲川を隔てて大田部村、南は高柳村・臼田村(現南佐久郡臼田町)、西は取出町村、北は野沢村に境する平坦地である。
中世は野沢郷に属した。慶長(一五九六―一六一五)より元和(一六一五―二四)に至る頃、野沢原村より分離したものといわれる。村名は、村社白髭神社境内にある金山社の中に長さ八寸、横五寸ほどの金敷石があり、開村の頃、鍛冶を業とした家で使用したということにちなむと伝える(南佐久郡誌)。近世初頭の仙石領以降徳川忠長領・幕府領・甲府領と続き、元禄一六年(一七〇三)一時岩村田領となり、宝永元年(一七〇四)より田野口領となって明治に至る。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]南淡町賀集鍛冶屋
賀集中村の南、山路川東岸にある。文明二年(一四七〇)八月一一日の番役差定(護国寺文書)に鍛冶屋村とみえ、中村とともに四番に編成されて護国寺警護の番役勤仕が命じられた。村名は鍛冶が居住したことにちなむとされる(常磐草)。慶長一六年(一六一一)の池田氏による鍛冶屋村検地帳(賀集家文書)では田畠合せて四二町三反余の反別と、各名請人名が記載される。寛永四年(一六二七)の蜂須賀氏時代の検地帳(南淡町役場蔵)では反別四三町六反余・高四六六石余。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]福崎町八千種
余田村の南に位置し、西光寺野と飯盛山(春日山とも、一九七・九メートル)との間を流れる平田川流域に立地する。神東郡に属する。慶長国絵図に「かちや村」とみえる。慶長六年(一六〇一)九月五日の神東郡鍛冶屋村検地帳写(鍛冶屋区有文書)によると田方一八町二反余・畑方四町三反余。屋敷数二二筆・名請人五一(うち入作人五)。正保郷帳では田方二五三石余・畑方三〇石余、「芝山有・新田有」と注記される。この新田は西光寺野の玉屋地区をさすらしい。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]上石津町上鍛冶屋
牧田川支流の鍛冶屋川沿いにあり、東は北脇村、西は谷畑村。文禄五年(一五九六)の多良山年貢割帳(西脇文書)に「かちや村」とあり、はたに・ひかし山・小谷・とをりのを合せて二斗余の山年貢を割当てられている。元和九年(一六二三)の時・多良郷家付帳(東高木文書)による家数一三。寛永六年(一六二九)の徳川家光朱印状写(江口文書)によると当村一〇〇石余が高木貞俊(北高木家)に宛行われている。元禄郷帳では二〇〇石余が高木衛貞(西高木家)領とあるが、元禄一二年(一六九九)の高木三家知行高帳(福長文書)によると一〇〇石余が北高木領とあり、残り一〇〇石余は尾張藩領。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]和泉市鍛冶屋町・青葉台
浦田村の南にある。池田谷の一村。村名は中世以来鍛冶屋を営むものが居住していたためと思われる。小村に讃岐田村があり、天正一五年(一五八七)六月の池田谷上村八ケ村連判米借用証文並起請文案(荒木家文書)に「さぬきた村」「かちや」が並んでみえる(→室堂村)。慶長一〇年(一六〇五)の和泉国絵図にも「かち村」「さぬき村」がみえるが、高は不明。讃岐田村は納花の谷山池築造後、讃岐国の者が池守として住みついたことから起こった地名と伝える(→納花村)。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]瀬戸町鍛冶屋
大森山の東麓に位置し、塩納村の東にあたる。鎌倉時代に起源をもつ刀工吉岡一文字派の居住地と伝え、鍛冶が多くいたため村名がつけられたという(「東備郡村志」ほか)。北部に四町余の御林があった(備前記)。天正一〇年(一五八二)五月二七日の福原元俊書状(萩藩閥閲録)に「鍛冶屋」とみえる。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)の吉岡庄に「カチヤ村」が載り、寛永備前国絵図では鍛冶屋村として高五二九石余。「備陽記」によれば山寄りの集落で、岡山京橋(現岡山市)まで道程四里三三町、田畠四三町四反余、家数八一・人数四七八、池五。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]豊栄町鍛冶屋
安宿村の西に位置し、沼田川の支流椋梨川が村の北寄りを東流、流域に形成された標高約三七〇メートルの低地と谷に農耕地が展開する。継目安堵御判礼銭以下支配状写(小早川家文書)の文明一二年(一四八〇)の項に、村内の日光寺・月光寺を乃美の寺院としているので、当村はもと乃美村のうちであったと考えられる。
元和五年(一六一九)の安芸国知行帳の村高三八三石八斗二升一合。「芸藩通志」には、畝数三四町六畝六歩、戸数五三・人口二七〇、牛二五・馬五、池に槌原池・太郎丸池、神社に八王子宮・稲荷大明神(現国津神社)・諏訪明神・山王権現、寺院に日光寺、廃寺に月光寺を記し、両寺とも天文年中(一五三二―五五)に焼失したが、小早川隆景が再興したという。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]中町鍛冶屋
高岸村の北東、杉原川の支流思出川流域に位置する。地内には牧野鉱山の鉱石を吹分けた金屋の呼称を残している。慶長国絵図に「かちや村」と記載される。正保郷帳では田方三八八石余・畑方一二四石余、幕府領。旧高旧領取調帳でも同領。天保郷帳では高四九六石余。天保三年(一八三二)油屋孫右衛門・同武右衛門が油絞株を許可されている(「油株取締証文」田高区有文書)。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]吉川町鍛冶屋みなぎ台
大畑村の西に位置し、美嚢川両岸の丘陵地に立地する。鍛冶村とも書く(正保郷帳など)。北は有安村、西は貸潮村。慶長国絵図に「かぢや村」とみえる。領主の変遷は吉谷村に同じ。正保郷帳では田方二八〇石余・畑方一七石余。天保郷帳では高三五一石余、旧高旧領取調帳では高二九二石余。寛保三年(一七四三)庄屋藤田新兵衛は村高が実測と相違していると明石藩へ願出、改検地で五九石余が引下げられた。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]八東町鍛冶屋
岩淵村の南東、清徳川流域に位置する。小畑郷一二ヵ村、小畑谷八ヵ村の一。「因幡志」は村名の由来を「昔因幡小鍛冶景長が住居せし所故の名也、今も村中に鍛冶屋々敷とて鉄屑数多出る所あり、此所にて鍛ひたるを寺坂打と云へり」と記す。拝領高は一八九石余。本免五ツ三分。枝郷に三山口村があったが、領内限りの一村として元禄一〇年(一六九七)から下札が別々に出された(安政五年村々生高竈数取調帳)。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]美方町鍛冶屋
貫田村の南西にある。集落は標高四〇〇メートル前後の緩傾斜地に発達。南西は佐坊村、南は東垣村。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「かちや村五郎左衛門殿」などとみえる。慶長六年(一六〇一)の山名豊国知行目録(池田家文書)では「さはう、かち屋」とあり、佐坊村と合せて高一五〇石。寛永一六年(一六三九)の知高帳には「かちや」とみえ、高五〇石。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]門前町鍛冶屋
中田村の南、南村の東、南川中流南岸の丘陵に立地。製鉄跡とみられるたたら・かなくその地名が数ヵ所あり、城が山・殿様池の地名も残る。正保郷帳では高五〇石余、田方一町九反余・畑方一町四反余、新田高二二石余、田方一町四反余・畑方三畝余。承応三年(一六五四)の村御印の高七二石余、免五ツ(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高八〇石、免五ツ四歩、小物成は山役六三匁(三箇国高物成帳)。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]新宮町鍛冶屋
上莇原村の東に位置し、栗栖川上流左岸に立地する。揖西郡に属し、美作道が通る。領主の変遷は町屋村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)に村名がみえ、池田輝政による内検地高一八一石余、高一五〇石余。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]加西市鍛治屋町
青野村の北東、播但中央山地の南東麓に位置する。慶長一五年(一六一〇)の年貢免状(青野町有文書)に鍛治屋村とみえ、高八一七石余。慶長国絵図には「かぢや村」とある。初め姫路藩領、正保二年(一六四五)赤穂藩領となる(正保郷帳、元禄三年「年貢免状」鍛治屋町有文書など)。元禄一四年(一七〇一)幕府領、同一六年旗本八木領となり幕末に至る(安政二年「年貢皆済目録」鍛治屋町有文書、弘化四年「勧農肥手銀切手一件控」蓬莱家文書など)。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]竹田市城原
城原川東岸の高台にあり、岡城下から久住町(現久住町)へ通ずる道に沿う。正保郷帳では長田郷に属し、田方一八石余・畑方一八石余。弘化物成帳では木原組のうち、村位は中、免九ツ四分、田二七石余(二町六反余)・畑一〇石余(一町八反余)・屋敷一石余(一反余)で、開田はほとんどなく、開畑八斗余(一反余)がある。
鍛冶屋村
かじやむら
[現在地名]安曇川町田中
南市村の西に位置し、「輿地志略」は大和鍛冶宗忠にちなんで村名がつけられたとする。中世には田中郷のうち。枝郷に横井川がある。もとは南市村のうちで、寛永石高帳には村名がみえず、元禄郷帳では膳所藩領で高一二一石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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