日本歴史地名大系 「畑瀬山村」の解説 畑瀬山村(東畑瀬)はたせやまむら(ひがしはたせ) 佐賀県:佐賀郡富士町畑瀬山村(東畑瀬)[現在地名]富士町大字畑瀬標高約二八〇メートルの川上(かわかみ)川の谷間の小集落。畑瀬山村は川上川を挟んで東側が佐賀郡山内(さんない)(東畑瀬)、西側が小城(おぎ)郡山内(西畑瀬)である。神代(くましろ)氏の勢力下にあり、神代勝利は東畑瀬に城を築き、宗源(そうげん)院を建立した。畑瀬が安富(やすどみ)庄に属したことは同寺の元和三年(一六一七)銘の銅鐘にある「肥前国佐嘉郡安富庄畑瀬」という文字でも明らかである。慶長絵図には小城郡に「波多瀬」と記されている。杠(ゆずりは)家文書の鍋島直茂所領目録に、直茂の妻(陽泰院)の知行地(隠居料)として「一 安富畑瀬山、一 小城波多瀬山」とあり、安富畑瀬山が東畑瀬である。 畑瀬山村(西畑瀬)はたせやまむら(にしはたせ) 佐賀県:佐賀郡富士町畑瀬山村(西畑瀬)[現在地名]富士町大字畑瀬佐賀郡山内(さんない)郷の畑瀬山村(東畑瀬)と川上(かわかみ)川を挟んで西岸の西畑瀬は、神代(くましろ)家が竜造寺氏と和睦するとともに竜造寺―鍋島の所領となった。西畑瀬は小城(おぎ)郡山内郷で、慶長絵図には小城郡に「波多瀬」と記されている。杠(ゆずりは)家文書の鍋島直茂所領目録に「小城波多瀬山」があり「妻候者江遣候所」と記され、直茂の妻、陽泰院の隠居料にあてられていたことがわかる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by