佐賀郡(読み)さがぐん

日本歴史地名大系 「佐賀郡」の解説

佐賀郡
さがぐん

面積:二八七・三七平方キロ
大和町やまとちよう富士町ふじちよう諸富町もろどみちよう川副町かわそえまち東与賀町ひがしよかちよう久保田町くぼたちよう

佐賀平野の中心に位置する佐賀市の北と南に分れてある。古代―近世の佐賀郡のうち中央部が佐賀市域となったため、北部の山地の富士町、山地から山麓部にかけての大和町と、南部の有明海に面した中世―近世・近代にかけての干拓地の多い諸富町川副町東与賀町・久保田町に郡域が二分されている。「肥前風土記」によれば「佐嘉郡 郷陸所里一十九 駅壱所 寺壱所」と記されている。郷六所は「和名抄」に城埼きさき巨勢こせ深溝ふかむぞ小津おづ山田やまだ防所ぼうじよ六郷が記載され、ほぼ現在の佐賀郡・佐賀市の地域をさすと考えられる。ただ、当時は南部の有明海に面する干拓地が造成されておらず、富士町の西部地域が小城おぎ郡に属していた(近代まで)。駅は「延喜式」や「和名抄」に「佐嘉駅」とあり、現大和町大字尼寺にいじの東部、国分こくぶ付近にあったかと考えられる。

「肥前風土記」「延喜式」「和名抄」には「佐嘉」と記し、中世には「佐賀」も混用され、近世にはほとんどが佐嘉となり、例外的に幕府に提出する鉄砲改書付だけが佐賀と記された(葉隠)が、明治の版籍奉還以後は佐賀となり、今日に及んでいる。

地名伝説として「肥前風土記」の「佐嘉郡」に、樟の巨木が繁茂していることから日本武尊が「栄国さかのくに」といい、これが栄郡―佐嘉郡となったという話と、土着していた土蜘蛛の大山田女・狭山田女という二人の賢女から賢女さかしめ郡―佐嘉郡となったという記述がある。

〔原始・古代〕

南部の諸富町・川副町・東与賀町・久保田町は、海に面した新しい沖積平野なので古代以前の歴史をほとんどもたないが、北部の富士町や大和町では古代以前の遺跡・遺物も豊富である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報